私は福岡県の郊外に住む会社員だ。30歳を過ぎた頃から、なぜか心のどこかでざわめくような不安を感じることが多くなった。特に夜、静まり返った部屋で一人いると、まるで誰かに見られているような感覚に襲われる。だが、その夜までは、それをただの気のせいだと笑いものにしていた。
その日は、会社の同僚たちと遅くまで飲んでいた。福岡市内から車で帰る途中、いつもの道が工事中で迂回路を通ることにした。スマホのナビが示したのは、山間部を抜ける細い県道。そこには、古びたトンネルがあることは知っていたが、普段は通らない道だった。時計はすでに深夜0時を回っていた。
トンネルに差し掛かった時、ヘッドライトがコンクリートの壁を照らし、ひんやりとした空気が車内に流れ込んできた。トンネルは意外と長く、薄暗いオレンジ色の照明が点々と続く。なぜか、車内のラジオが急にノイズを拾い始め、雑音に混じって何か低い声のようなものが聞こえた気がした。『…ここ…出…』。聞き間違いだろ、と思い、ボリュームを下げた瞬間、突然エンジンがガクンと止まった。
「マジかよ…」と呟きながら、セルを回すが反応がない。仕方なく車を路肩に寄せ、スマホで助けを呼ぼうとしたが、電波が圏外になっている。山奥のトンネルだ、仕方ないか…と自分を納得させつつ、懐中電灯代わりにスマホのライトを点けてトンネルの外へ歩き始めた。
トンネルの中は異様に静かで、自分の足音だけが反響する。だが、数歩進んだところで、背後からかすかな音が聞こえた。カツ、カツ…。まるで誰かがゆっくりと歩いてくるような音だ。振り返ったが、誰もいない。ヘッドライトの光が届く範囲に何も見えないのに、なぜか背筋がゾクッとした。
急いでトンネルの出口に向かうが、歩けど歩けど出口が見えない。さっきはそんなに長く感じなかったのに、まるでトンネルが伸びているかのようだ。息が荒くなり、冷や汗が額を伝う。すると、またあの音。カツ、カツ…。今度ははっきりと近くで聞こえる。慌てて振り返ると、闇の中に白い人影が立っていた。
それは、ぼんやりとした輪郭を持つ女だった。白い服を着ていて、長い髪が顔を覆っている。彼女は動かず、ただそこに立っていた。心臓がバクバクと鳴り、足がすくんで動けない。「誰…?」と声を絞り出すと、彼女の頭がゆっくりと持ち上がり、髪の隙間から覗く目が私を捉えた。その目は、黒く底が見えないほど深く、まるで私の魂を吸い込むようだった。
次の瞬間、彼女の口が開き、低い、まるで機械のような声が響いた。『…ここ…私の…場所…』。その声はトンネル全体に反響し、私の頭の中で何度も繰り返された。恐怖で体が震え、逃げ出そうとしたが、足が動かない。彼女が一歩近づくたびに、トンネルの壁が脈打つように揺れている気がした。いや、実際に揺れていた。コンクリートがひび割れ、黒い液体が滲み出してきた。
突然、スマホのライトが消え、真っ暗闇に包まれた。暗闇の中で、彼女の声だけが聞こえる。『…一緒に…永遠に…』。私は叫び声を上げ、必死に走った。どれだけ走ったかわからない。息が切れ、膝がガクガクする中、ようやくトンネルの出口が見えた。振り返ると、彼女の姿は消えていたが、トンネルの奥からまだカツ、カツという音が追いかけてくる。
車に戻り、震える手でキーを回すと、なぜかエンジンがかかった。アクセルを踏み込み、トンネルを後にした。家に着くまで、バックミラーを見るのが怖かった。家に着いてからも、あの女の目と声が頭から離れない。翌日、会社でそのトンネルのことを同僚に話すと、誰もが怪訝な顔をした。「あの道にトンネルなんてないよ」と。
気になって後日、昼間にその道を訪れた。確かに、ナビが示した道はある。だが、トンネルはどこにもなかった。ただの直線道路が山の間を抜けているだけだ。なのに、私の車には、トンネルの壁に擦ったような傷が残っていた。そして、夜になると、時折、家の外からカツ、カツという足音が聞こえる。窓の外を見ても誰もいない。でも、感じるのだ。あの女が、すぐそこにいることを。
最近、夢の中で彼女が現れるようになった。毎晩、トンネルの闇の中で私を見つめ、囁く。『…もうすぐ…一緒…』。私は眠るのが怖くなり、夜を過ごすためにカフェやコンビニを彷徨うようになった。だが、どこに行っても、背後でカツ、カツという音が聞こえる。彼女は私を追いかけている。いや、もはや私の頭の中にいるのかもしれない。
今、こうしてこの話を書いている間も、部屋の隅から視線を感じる。振り返るのが怖い。もし彼女がそこにいたら…。私はもう、逃げられないのかもしれない。