20年前、高知県の山深い地域に住む私は、大学生だった。夏休みを利用して、故郷の集落に帰省していた。実家は山間の小さな集落にあり、周囲を鬱蒼とした森と急峻な峠に囲まれている。地元では「霧の峠」と呼ばれる場所があって、古くから不思議な噂が絶えなかった。夜になると濃い霧が立ち込め、道を見失った旅人が二度と戻らなかったという話や、峠の奥で不気味な声が聞こえるという言い伝えがあった。私はそんな話を子どもの頃から聞いて育ったが、都会の大学生活に慣れた身には、ただの迷信だと笑いものだった。
その夏、親友のKが私の実家に遊びに来た。Kはアウトドア好きで、登山やキャンプに熱心な男だった。「せっかく山に来たんだから、夜の峠を探索しようぜ」と彼が言い出したのは、帰省して3日目の夜だった。私は「霧の峠は危ないよ」と軽く警告したが、Kは「そんなオカルト話、信じてるわけ?」と笑い飛ばし、私もついそのノリに乗ってしまった。結局、懐中電灯と簡単な食料を持って、夜の峠に向かうことにした。
午後10時頃、私たちは家を出た。夏とはいえ、山の夜は冷える。懐中電灯の光を頼りに、細い山道を登っていく。霧の峠は集落から車で30分ほどの場所にあるが、夜道を歩くとなると1時間以上かかる。最初はKの軽口や冗談で和気あいあいとしていたが、峠に近づくにつれ、空気が重くなってきた。風が止み、虫の声すら聞こえなくなった。代わりに、どこからか水が滴るような音が響く。Kもさすがに口数が減り、「なんか変な雰囲気だな」と呟いた。
峠の入り口に着いたとき、霧が予想以上に濃かった。懐中電灯の光が霧に飲み込まれ、10メートル先すら見えない。私は「やっぱり戻ろう」と提案したが、Kは「ここまで来たんだから、ちょっとだけ進もう」と強気だった。私は嫌な予感がしたが、彼を一人で行かせるわけにもいかず、渋々ついていくことにした。
道はさらに狭くなり、両側を急な斜面に挟まれた一本道になった。霧はますます濃くなり、まるで白い壁に囲まれているようだった。すると、Kが突然立ち止まった。「聞こえた?」と彼が囁く。私は耳を澄ませたが、何も聞こえない。「何? 何も聞こえないけど」と答えると、Kは顔をこわばらせ、「女の声だ。誰かが泣いてる」と言い出した。私は冗談だろ、と笑おうとしたが、Kの目は本気だった。その瞬間、確かに聞こえた。遠くから、かすかに、女のすすり泣くような声が。
「誰かいるのか?」とKが叫んだが、声は霧に吸い込まれるように消えた。すると、泣き声が急に近づいてきた。まるで耳元で囁かれているかのように、はっきりと。「助けて…助けて…」という声が、細く、震えながら響く。私は背筋が凍り、Kの手を掴んだ。「帰るぞ! 今すぐ!」と叫んだが、Kは「誰か助けを求めてるんじゃないか?」と言い、逆に霧の奥へ進もうとした。そのとき、懐中電灯の光が一瞬揺らぎ、消えた。真っ暗闇の中で、泣き声が一層大きく響く。「助けて…ここにいるよ…」
私はパニックになり、Kを無理やり引きずって来た道を戻ろうとした。だが、霧が濃すぎて方向がわからない。足元はぬかるみ、まるで道がなくなったかのように感じた。Kもさすがに怖気づいたのか、「お前、道わかるよな?」と震える声で聞いてくる。私は「わかんねえよ! とにかく動け!」と叫び、適当に下り坂の方へ走り出した。すると、背後から足音が聞こえた。誰かが、すぐ後ろで私たちを追いかけてくるような、ドタドタという重い足音。私は振り返る勇気がなく、ただ必死に走った。
どれだけ走ったかわからない。息が切れ、足がもつれそうになったとき、突然霧が晴れた。目の前に、集落へ続く舗装された道が見えた。私はKの手を離し、地面にへたり込んだ。Kも息を切らしながら、「何だったんだ、あれ…」と呟いた。懐中電灯は電池切れでもないのに点かず、二人とも放心状態だった。集落に戻るまで、誰も口をきかなかった。
家に着いたのは深夜2時過ぎ。母が心配そうに待っていて、私たちの顔を見るなり「霧の峠に行っただろ」と一喝した。母によると、霧の峠では昔、若い女が事故で亡くなり、その霊が彷徨っているという。彼女は峠で車ごと崖下に落ち、助けを求める声だけが残ったのだと。母は「だから行くなと言ったのに」と嘆き、私たちに塩を振って清めた。
翌日、Kは早々に帰ってしまった。彼はそれ以来、霧の峠の話は一切しない。私もあの夜のことを思い出すたび、背筋が寒くなる。あの泣き声は、確かに人間のものだった。でも、どこか人間とは違う、底知れぬ恐怖が込められていた。あの峠には二度と近づかないと心に誓ったが、今でも夢の中で、霧の中から「助けて…」と呼ぶ声が聞こえることがある。
数年後、地元の古老から聞いた話では、霧の峠では私たち以外にも似た体験をした人がいるという。特に濃霧の夜、助けを求める声を聞いた者は、決して振り返ってはいけない。振り返ると、彼女の顔が目の前に現れ、二度と正気ではいられなくなるのだと。私はあの夜、振り返らなかったことを、今でも心から感謝している。