それは今から10年ほど前のこと、福岡県の山間部に住む私は、大学を卒業して地元の小さな会社に就職したばかりだった。
当時、私は市街地から少し離れた田舎町に住んでいて、夜になると辺りは静寂に包まれる。山々に囲まれたその町は、昼間は穏やかで自然豊かな場所だったが、夜になるとどこか不気味な雰囲気が漂う。特に、地元の人々が「あそこには近づくな」と囁く、古い廃トンネルの噂が私の頭を離れなかった。
そのトンネルは、数十年前に使われていた鉱山への道だったが、鉱山が閉鎖されて以来、放置されていた。トンネルの入り口は苔むし、鉄格子で封鎖されているものの、隙間から冷たい風が吹き出し、まるで何か生きているかのように唸る音が聞こえると噂されていた。子供の頃、友達と「肝試しに行こうぜ」と盛り上がったこともあったが、結局誰も本気で近づこうとはしなかった。それほどまでに、そのトンネルには不気味な空気が漂っていたのだ。
ある晩、会社の同僚たちと飲み会があり、終電を逃してしまった私は、仕方なく山道を歩いて帰ることにした。普段なら車を使う道だが、その日は車を会社に置いたままだった。時計はすでに深夜0時を回り、月明かりだけが頼りの暗い山道を、酔った頭でふらふらと歩いていた。道の脇には深い森が広がり、時折、木々の間をすり抜ける風の音や、遠くで鳴く鳥の声が聞こえる。少し肌寒い夜だったが、酔いのせいでそれほど気にならなかった。
しばらく歩いていると、道の先にあの廃トンネルの入り口が見えてきた。鉄格子が月明かりに照らされ、黒々とした影を地面に落としている。いつもなら車で通り過ぎるだけの場所だが、こうして歩いて近くを通るのは初めてだった。心臓が少し速く打ち始めたが、「ただのトンネルだ。大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、足を速めた。
トンネルの入り口を過ぎようとしたその時、ふと、奇妙な音が耳に飛び込んできた。
「…うぅ…」
低い、うめくような声。最初は風の音かと思ったが、明らかに人間の声に似ていた。足を止め、耳を澄ませる。静寂の中で、その音はよりはっきりと聞こえてきた。
「うぅ…助けて…」
背筋が凍った。声はトンネルの奥から聞こえてくる。こんな時間に、こんな場所で人がいるはずがない。しかも、トンネルは封鎖されているのだ。鉄格子の隙間は人が通れるほど大きくない。頭の中で理性が「ただの気のせいだ」と叫ぶ一方で、身体は動かなくなっていた。
「誰か…いるの?」
自分の声が震えているのが分かった。返事はない。でも、うめき声は止まらない。いや、むしろ少しずつ大きくなっている気がした。トンネルの暗闇を凝視すると、鉄格子の向こう、奥の闇に何か動く影が見えた。いや、見えた気がした。月明かりが雲に隠れ、辺りは一瞬で真っ暗になった。
「うぅ…助けて…!」
今度ははっきりと、叫び声のようなものが響いた。私はたまらず後ずさりし、踵を返して走り出した。心臓が喉から飛び出しそうだった。背後から何かが追いかけてくるような気がして、振り返る勇気すらなかった。どれだけ走ったか分からない。ようやく家に辿り着いたとき、靴は泥だらけで、服は汗でびしょ濡れだった。
翌朝、恐る恐る同僚にその話をした。すると、意外なことに、彼らも似たような話を知っていた。「あのトンネル、昔、事故があったんだよ」と一人が口を開いた。数十年前、鉱山で働く労働者がトンネル内で落盤事故に巻き込まれ、何人かが生き埋めになったという。その後、トンネルは閉鎖されたが、夜な夜な叫び声やうめき声が聞こえるという噂が絶えなかった。地元の人々は「死んだ労働者の魂がまだ彷徨っている」と信じ、近づかないようにしていたのだ。
私はその話を聞いて、ますますあの夜のことを思い出すのが怖くなった。だが、もっと恐ろしいことが後日判明した。あのトンネルの鉄格子は、実は数年前に一部が壊れており、人が出入りできる状態だったというのだ。つまり、あの夜、私が見た影や聞いた声は、単なる「幽霊」ではなかったかもしれない。誰か、または何か、が本当にトンネルの中にいた可能性がある。
それからというもの、私は二度とあの山道を夜に歩くことはなくなった。車で通り過ぎる際も、トンネルの入り口を見るたびに、背筋に冷たいものが走る。あのうめき声は、果たして幽霊だったのか、それとも…。今でも、考えるだけで眠れなくなる夜がある。