今から20年ほど前、島根県の山奥に住む私は、大学を卒業し、地元の小さな役場で働き始めたばかりだった。実家から車で30分ほどの集落に、独り暮らしを始めたアパートがあった。そこは古びた木造の建物で、隣の部屋には誰も住んでおらず、夜になると静寂が耳に痛いほどだった。
その集落の外れに、朽ちかけた神社があった。地元の人々は「行ってはいけない」と囁き合う場所で、子供の頃から「夜にあそこを通ると、変な声が聞こえる」と噂されていた。私はそういう話を信じない性格だったが、なぜかその神社はいつも不気味な雰囲気を漂わせていた。鳥居は苔に覆われ、参道の石段は崩れかけ、境内には誰も手入れしていない雑草が生い茂っていた。本殿は半壊状態で、屋根には穴が開き、風が吹くと奇妙な音が響いた。
ある晩、仕事で遅くなり、夜道を車で帰る途中、いつも通る山道が土砂崩れで通行止めになっていた。仕方なく、迂回路として神社の脇を通る細い道を選んだ。時計はすでに23時を回っていた。月明かりが薄く、木々の影が道に伸び、まるで何かが蠢いているように見えた。車内のラジオは雑音ばかりで、気分を紛らわすこともできない。私は少しだけ窓を開け、冷たい夜気を吸い込んだ。
神社の近くを通るとき、ふと異様な気配を感じた。エンジン音に混じって、どこからか低い呻き声のようなものが聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、声は次第にハッキリと聞こえるようになった。それはまるで、誰かが苦しみながら呟いているような、言葉にならない声だった。私は背筋がゾッとして、アクセルを踏み込んだ。しかし、道は狭く、カーブが多い。急ぐほど車は不安定になり、焦りが募った。
突然、ヘッドライトが何か白いものを捉えた。道の真ん中に、ぼんやりと白い影が立っていた。人間の形をしていたが、顔は見えず、長い髪が風に揺れているように見えた。私は急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らしたが、影は動かなかった。心臓がバクバクと鳴り、汗が額を伝った。「何だ、あれは…」と呟きながら、私は車を降りるべきか迷った。だが、恐怖が勝り、窓を閉めてドアをロックした。
その瞬間、影がスッと消えた。まるで霧が晴れるように、忽然と姿を消したのだ。私は息を呑み、車を急発進させた。神社を過ぎ、集落の明かりが見えるまで、振り返る勇気はなかった。家に着いたとき、時計は午前1時を回っていた。全身が冷や汗で濡れ、震えが止まらなかった。
翌日、役場の同僚にその話をすると、彼は顔を青ざめさせた。「あの神社、昔、呪いの儀式が行われていたって話だよ」と彼は言った。なんでも、100年以上前、村に疫病が流行ったとき、ある女が村人を救うために神に捧げられたのだという。だが、儀式は失敗に終わり、女は怨霊となって神社に封じられた。それ以来、夜に神社に近づく者は、彼女の呪いに取り憑かれるというのだ。
私は半信半疑だったが、それ以来、夜にその道を通ることは避けた。しかし、奇妙なことは続いた。ある夜、アパートの窓の外から、微かにあの呻き声が聞こえてきた。カーテンを開ける勇気はなく、布団をかぶって朝を待った。別の日には、部屋の電気をつけても、時折チカチカと点滅し、まるで何かが電気に干渉しているようだった。しまいには、夢の中で白い影が私の枕元に立つようになった。彼女の顔は見えないが、長い髪が揺れ、冷たい手が私の首に触れる感覚があった。
耐えかねた私は、集落の古老に相談に行った。80歳を過ぎたその老婆は、私の話を聞いて静かに頷いた。「あんた、彼女に見つかったんだね」と彼女は言った。老婆の話では、怨霊は自分の存在を忘れられたくないと、夜な夜な彷徨い、近づく者に呪いをかけるとのことだった。「お前さんが無事に生きてるのは、彼女がまだ本気じゃないからだ。だが、放っておけば、命まで取られるよ」。老婆は私に、塩と清酒を持って神社に行き、特定の祝詞を唱えるよう教えてくれた。
私は恐怖で足がすくんだが、事態を収めるにはそれしかないと思い、翌晩、意を決して神社に向かった。月明かりのない真っ暗な夜だった。懐中電灯を手に、震える足で参道を進んだ。境内に入ると、空気が急に重くなり、耳鳴りがした。本殿の前に立つと、持ってきた塩を撒き、清酒を地面に注いだ。そして、老婆に教わった祝詞を、震える声で唱え始めた。
その時、背後でガサッと音がした。振り返ると、誰もいない。だが、明らかに何かが近くにいる気配があった。祝詞を唱え終わり、急いでその場を離れようとした瞬間、背中に冷たい風が吹き抜けた。同時に、耳元でハッキリと女の声が囁いた。「…忘れないで…」。その声は、悲しみと憎しみが混じったような、凍りつくような響きだった。
私は叫び声を上げ、転ぶようにして車に戻った。家に帰り着いたとき、服は汗でびっしょりだった。それ以来、呻き声や白い影は現れなくなったが、私は二度とあの神社に近づくことはなかった。数年後、仕事の都合で集落を離れたが、今でもあの夜のことは鮮明に覚えている。時折、夜中に目が覚めると、耳元で囁くような気配を感じることがある。あの女がまだ私を忘れていないのではないかと、考えるだけで身の毛がよだつのだ。
集落の人々は今もあの神社を避け、子供たちには「夜には近づくな」と言い聞かせている。だが、若い世代の中には、好奇心から神社に忍び込む者もいるという。そして、彼らの中には、夜道で白い影を見た、奇妙な声を聞いたと語る者が後を絶たない。彼女はまだそこにいる。忘れられることを拒み、永遠に彷徨い続けているのだ。