夜道に潜む赤い目の影

妖怪

明治の頃、愛知の山深い村に、夜な夜な現れる妖怪の噂があった。村人たちはそれを「赤目」と呼び、恐れていた。赤い目が闇に浮かび、近づく者を惑わし、魂を奪うという。誰もその正体を知らず、ただ、夜道を一人で歩くことを避けるのが村の暗黙の掟だった。

ある夏の夜、村の若者である男は、隣村の親戚の家から遅くに帰る途中だった。名は仮に太郎としよう。太郎は村一番の猟師で、恐れを知らぬ男として知られていた。赤目の噂など、子供だましの戯言だと笑いものだった。彼は提灯を手に、月明かりもない暗い山道を歩いていた。

道は細く、両脇を鬱蒼とした森が覆っていた。風が木々を揺らし、葉擦れの音が不気味に響く。太郎は鼻歌を歌いながら歩みを進めていたが、ふと、背後に何かの気配を感じた。振り返っても、そこにはただの闇。提灯の光が揺れ、木々の影が踊るだけだ。「獣だろう」と自分に言い聞かせ、再び歩き出した。

しかし、気配は消えない。それどころか、近づいてくるような感覚があった。足音はない。声もない。ただ、背中に突き刺さるような視線が、じわじわと迫ってくる。太郎の心臓が少し速く打ち始めた。「誰だ!」と叫んでみたが、返事はなく、代わりに低いうめき声のような音が遠くから聞こえた。風ではない。動物でもない。何か、異様なものだ。

太郎は立ち止まり、提灯を高く掲げた。光が届く範囲は狭く、森の奥は真っ黒な闇に閉ざされている。その時、闇の中に、赤い光が二つ、ぽつりと浮かんだ。目だった。人間のものではない、異様に大きく、燃えるように赤い目。じっと太郎を見つめている。距離は遠いはずなのに、その目はまるで目の前にあるかのように、太郎の心を凍りつかせた。

「ふざけるな!」太郎は猟師の誇りにかけて、恐れを振り払おうと大声を上げた。しかし、声は森に吸い込まれ、虚しく響くだけ。赤い目は動かない。いや、動いている。ゆっくり、だが確実に近づいてくる。提灯の光が揺れ、影が歪む中、赤い目だけが不気味に鮮明だった。

太郎は腰の短刀を握り、構えた。どんな獣だろうと、立ち向かう覚悟はできていた。だが、その時、赤い目の下に、ぼんやりと白い顔のようなものが浮かんだ。顔ではない。顔の形をした何かだ。口は裂け、目は燃え、髪らしきものが風もないのに揺れている。人間ではない。妖怪だ。赤目だ。

太郎の足がすくんだ。猟師として幾多の危機を乗り越えてきた男が、初めて本能的な恐怖に支配された。赤目は音もなく近づき、提灯の光すら飲み込むような闇をまとっていた。その口がゆっくり開き、まるで笑うように歪んだ瞬間、太郎は我に返った。逃げなければ。だが、足が動かない。体が、まるで石のように固まっていた。

「助けて…」と、声にならない声が喉から漏れた。その瞬間、赤い目が一瞬で目の前に迫った。冷たい息が首筋に触れ、耳元で囁くような声が聞こえた。「お前も…闇に…」その声は、まるで自分の心の奥底から響いてくるようだった。太郎は叫び声を上げ、短刀を振り回したが、何にも当たらない。赤目は消えていた。提灯が地面に落ち、火が消えた。

どれほどの時間が経ったのか、太郎は気づけば道の真ん中に倒れていた。提灯は壊れ、辺りは完全な闇。だが、赤い目はどこにもなかった。遠くで、鳥が鳴く声が聞こえた。夜が明け始めていたのだ。太郎は這うようにして村に戻り、事の顛末を語ったが、村人たちは信じなかった。「赤目など、ただの迷信だ」と。しかし、太郎の目は、かつての自信に満ちた光を失い、怯えた獣のようだった。

それから数日後、太郎は村を出た。二度と戻ることはなかった。村人たちは囁き合った。「赤目に魂を奪われた」と。以来、村では夜道を歩く者がさらに減り、赤目の噂は一層恐ろしいものとして語り継がれた。ある者は言う。赤目はまだ森の奥に潜み、闇の中で次の獲物を待っていると。

今も、愛知の山深い道を夜に歩くとき、背後に気配を感じたら、決して振り返ってはならない。そこに、赤い目が浮かんでいるかもしれないから。

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