凍える闇の囁き

心霊

凍てつく冬の夜、青森の山奥にひっそりと佇む小さな集落があった。そこは、雪に閉ざされ、外部との繋がりがほとんどない場所だった。今から数十年前、都会から逃れるようにその集落に引っ越してきた若い夫婦がいた。夫は教師、妻は刺繍を趣味とする穏やかな女性だった。彼らは古びた一軒家を安く借り、静かな生活を夢見て移り住んだ。

その家は、集落の外れ、鬱蒼とした杉林に囲まれた場所に建っていた。屋根は苔むし、壁は風雪に削られ、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。だが、夫婦はそれを気にせず、新しい生活に胸を膨らませていた。最初の数ヶ月は平穏だった。夫は村の小さな学校で教え、妻は家で刺繍に励んだ。しかし、冬が深まるにつれ、異変が訪れた。

最初に気づいたのは妻だった。夜、寝室の窓から外を見ると、遠くの杉林の間に白い影が揺れているのが見えた。まるで誰かが立っているようだったが、近づくと消えてしまう。妻は夫に相談したが、「雪の反射だろう」と笑いものだった。しかし、影は毎夜のように現れ、時には窓のすぐ外で揺らめくようになった。妻の不安は募り、刺繍の針を持つ手が震えるようになった。

ある晩、夫が学校の仕事を終えて遅く帰宅すると、妻が台所で震えていた。「あそこに…いる」と、彼女は窓の外を指さした。夫が目を凝らすと、確かに白い影が家の裏の林に立っていた。だが、懐中電灯を持って外に出ると、何もなかった。ただ、雪の上には不自然に浅い足跡が点々と続いていた。人間のものにしては軽すぎ、まるで誰もいない場所を何かが見ず知らずに歩いたかのようだった。

その夜から、夫婦の周りで奇妙な出来事が増えた。家の中の物が勝手に動く。妻の刺繍糸が絡まり合い、解こうとすると血のような赤い染みが浮かぶ。夫が学校から持ち帰った書類が、朝になると引きちぎられていた。ある夜、夫は寝室で目を覚ますと、妻がベッドにいないことに気づいた。慌てて家を探すと、彼女は真っ暗な居間で、窓の外をじっと見つめていた。「呼んでる…」と呟く妻の声は、まるで彼女自身のものではないようだった。

集落の古老に相談すると、彼は顔を曇らせた。「その家には、昔、悲しいことがあった」と語り始めた。数十年前、その家に住む若い女性が、恋人に裏切られ、雪の夜に自ら命を絶ったという。彼女の魂は彷徨い、冬になると現れるのだと。古老は「家を出なさい」と警告したが、夫婦には引っ越す金もなかった。

それから、事態はさらに悪化した。妻は夜中に突然起き上がり、林の方へ歩き出すようになった。夫が追いかけると、彼女は雪の中で立ち尽くし、虚空を見つめていた。ある夜、夫が目を覚ますと、妻が刺繍針を手に握りしめ、自身の腕に刺していた。血が滴り、彼女は笑っていた。「これでいいの…これで終わる…」と。夫は彼女を抑え、針を取り上げたが、妻の目はまるで別人のように冷たく、夫を見据えていた。

極めつけは、最も寒い夜に起こった。夫が目を覚ますと、家の中が異様に静かだった。妻の姿はなく、窓が開け放たれ、冷たい風が吹き込んでいた。外に出ると、雪の上に妻の足跡が林の奥へと続いていた。夫は必死で追いかけた。林の奥、凍りついた小さな池のほとりに、妻は立っていた。彼女の周りには白い影がいくつも揺れ、囁くような声が響いていた。「おいで…おいで…」と。夫が叫びながら近づくと、妻は振り返り、微笑んだ。だが、その顔は妻のものではなかった。目が黒く落ちくぼみ、口元が不自然に裂けていた。

夫は妻の手を掴み、引きずるように家へ戻った。だが、その日から妻は変わった。口数が少なくなり、刺繍をやめ、ただ窓の外を見つめるようになった。夫は恐怖に耐えきれず、集落の神主に助けを求めた。神主は家を清め、祈祷を行ったが、その最中、突然妻が叫び声を上げ、倒れた。彼女の口から出てきたのは、聞き取れない言葉と、まるで風のような低い唸り声だった。

結局、夫婦は家を離れ、都会へ戻った。だが、妻はその後も元に戻ることはなかった。彼女は時折、夜中に起き上がり、窓の外を見つめ、「まだ呼んでる」と呟いた。夫は妻を支え続けたが、彼自身もあの夜の出来事を忘れることはできなかった。集落の人々は、その家を「呪われた家」と呼び、誰も近づかなくなった。雪の夜、林の奥で白い影が揺れているという噂は、今も消えない。

あの家は今もそこにあり、雪が降るたびに、誰かの足跡が現れるという。だが、誰もその足跡を追おうとはしない。なぜなら、追えば二度と戻れないと、皆が知っているからだ。

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