今から数十年前、俺がまだガキの頃、親父の実家がある三重県の山奥の集落に夏休みごとに遊びに行っていた。あの辺りは、深い森と急な谷に囲まれた場所で、集落の外れには古い祠がいくつも点在していた。子供の俺には、ただの田舎の風景だったが、じいちゃんやばあちゃんから「夜は谷に近づくな」「祠の前で変な真似をするな」と何度も釘を刺されていた。
その夏、俺は中学二年生だった。従兄弟のタケシと一緒に、じいちゃんの家で過ごすのが楽しみだった。タケシは俺より二つ年上で、いつも何か面白いことを企むやつだった。ある日、昼間っから退屈で、タケシが目をキラキラさせて言ってきた。「なあ、夜に谷の奥にある祠まで探検しに行かねえ?」
「夜? じいちゃんにバレたら怒られるぞ」と俺は渋ったが、タケシの「怖えなら来なくていいよ」って挑発にムキになって、つい「行くよ!」と言ってしまった。心のどこかで、じいちゃんの忠告が引っかかっていたけど、子供の好奇心には勝てなかった。
その夜、月明かりが薄く地面を照らす中、俺たちは懐中電灯を手に家を抜け出した。集落の外れから谷に続く獣道を進む。夜の森は静かで、木々の間を風が抜ける音と、時折遠くで鳴るフクロウの声だけが響いていた。タケシはいつもの調子で「妖怪なんて出ねえよ、じいちゃんの脅しだろ」と笑っていたが、俺はなんだか胸がざわざわしていた。
谷の奥に進むにつれ、霧が濃くなってきた。夏なのに妙に肌寒く、懐中電灯の光が霧に滲んでほとんど役に立たなかった。やっとのことで、苔むした石の祠にたどり着いた。祠は古びていて、周囲には誰も近づいた形跡がない。石の表面には何か文字が彫られていたが、風化して読めなかった。
「ほら、なんもねえじゃん!」タケシが祠の前で大げさに両手を広げた。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。風が止まり、森が急に静まり返ったんだ。まるで何かが見ているような、妙な気配が漂っていた。「タケシ、やめろよ。なんか変だぞ」と俺が囁くと、タケシは「ビビりすぎ!」と笑いながら祠の石を叩いた。
その瞬間、地面が小さく揺れた気がした。いや、揺れたんじゃない。地面の下から何か重いものが這うような、ドロドロとした音が聞こえてきたんだ。タケシも笑顔が凍りついて、懐中電灯を握りしめた。「何だ…今の?」と俺が言う前に、霧の中から黒い影がゆっくりと浮かび上がってきた。
それは人間の形をしていたけど、どこか歪だった。頭が異様に大きく、首が細長く、腕が地面に引きずるほど長かった。顔は…顔は見えなかった。いや、見ようとしても目が滑るように、顔の部分だけがぼやけて認識できなかった。影は祠の前に立ち、じっと俺たちを見ているようだった。
「タケシ、走れ!」俺は叫んでタケシの手を引っ張った。だが、タケシは動けなかった。まるで足が地面に縫い付けられたみたいに、震えながらその場に立ち尽くしていた。影が一歩近づいてくる。ドロドロという音がまた聞こえた。今度はもっと近く、まるで地面の下から這い上がってくるような音だった。
俺は必死でタケシの腕を引っ張り、なんとかその場から逃げ出した。振り返ると、影は祠の前でじっと立ったままだったけど、霧がどんどん濃くなっていく。懐中電灯の光が届かなくなり、俺たちはただ闇の中を走った。どれくらい走ったか分からない。足がもつれて転びそうになりながら、ようやく集落の明かりが見えた。
家に飛び込むと、じいちゃんが鬼のような顔で待っていた。「どこ行っとった! 谷に行ったな!」と一喝され、俺たちは震えながら全部話した。じいちゃんの顔がみるみる青ざめ、ばあちゃんを呼んで何か囁き合った後、俺たちにこう言った。「二度と谷には近づくな。あそこには昔から『もの』が棲んどる。祠を荒らすと、そいつが目を覚ますんだ」
じいちゃんの話によると、谷の奥の祠は、昔、村に災いをもたらした妖怪を封じるために建てられたものらしい。妖怪は「谷の影」と呼ばれ、霧の夜に現れては人を惑わし、谷の底に引きずり込むと言われていた。じいちゃんの祖父の代に、祠を荒らした若者が行方不明になった事件があり、それ以来、夜の谷は禁忌とされていた。
その夜、俺は眠れなかった。窓の外を見ると、遠くの谷から霧が這うように集落に流れ込んでくるのが見えた。タケシはそれ以来、谷の話をするたびに怯えた顔をするようになった。俺もあの影のことを思い出すたび、背筋が凍る。あの夜、俺たちが祠で見たものは、本当にただの幻だったのか。それとも、谷の底でまだ何かが這っているのか。
数年後、俺が高校生になった頃、タケシが突然「あの夜、影に呼ばれた気がする」とぽつりと言った。俺は冗談だろと笑ったが、タケシの目は本気だった。それからタケシは集落に来なくなった。じいちゃんが死に、ばあちゃんも施設に入って、俺もあの集落にはあまり戻らなくなった。でも、時折、霧の深い夜に、あのドロドロという音が耳の奥で響くことがある。まるで、谷の底から何かが俺を呼んでいるかのように。
今でも、霧が濃い夜には窓を閉め切る。あの影が、どこかでまだ俺を待っている気がしてならないんだ。