今から数十年前、三重県の山深い集落に、静かな暮らしを営む家族がいた。父、母、そして中学生の息子、健太。集落の外れ、鬱蒼とした森に隣接する古い家に住んでいた彼らは、都会の喧騒から離れ、素朴な日々を送っていた。だが、その森には、村の古老たちが語る不気味な言い伝えがあった。「あの森には、音を喰らう者が棲む。夜、森に入れば二度と戻れぬ」と。
健太は好奇心旺盛な少年だった。学校の友人たちと、夏休みの夜、肝試しをしようと計画した。舞台はもちろん、あの森。古老たちの忠告を笑いものだと考えていた彼らは、懐中電灯を手に、夜の森へと足を踏み入れた。森の入り口には、苔むした石碑が立っていた。文字は風化して読めなかったが、なぜか健太の胸に冷たいものが走った。それでも、友人の笑い声に押され、彼は一歩を踏み出した。
森の中は、昼間でも陽光が届かず、湿った空気が肌にまとわりついた。夜ともなれば、闇はまるで生き物のように彼らを包み込んだ。懐中電灯の光が木々の間を切り裂くが、その先にはただ黒い影が揺れるばかり。最初は冗談を言い合い、わざと叫んで騒いでいた仲間たちだったが、徐々に会話が途切れ、足音だけが響くようになった。健太は気づいた。森の中が、異様に静かだと。鳥のさえずりも、虫の音も、風のそよぐ音さえもない。まるで世界から音が消えたかのようだった。
「なんか…変じゃね?」友人の一人が囁いた。その声は、まるで水面に落ちた小石の波紋のように、森の闇に吸い込まれた。誰も答えなかった。健太の背筋に冷や汗が伝う。すると、遠くから、かすかな音が聞こえた。カサ…カサ…。枯れ葉を踏む音。だが、それは一定のリズムではなく、時折止まり、時折速くなる、不規則なものだった。仲間たちは顔を見合わせ、懐中電灯をその方向へ向けた。光の先には何もなかった。ただ、黒い木々の間が、まるで息を潜めるように静まり返っていた。
「帰ろうぜ」と誰かが言った瞬間、カサカサという音が急に近づいてきた。まるで何かが猛スピードでこちらに向かってくるようだった。健太の心臓は早鐘を打ち、仲間たちは一斉に叫び声を上げて走り出した。だが、森の闇は彼らを絡め取るように濃く、足元は根や石でごつごつしていた。健太は転びそうになりながらも必死に走った。後ろから聞こえる音は、どんどん近づいてくる。振り返る勇気はなかったが、背後で何か大きなものが動いている気配を感じた。
ようやく森の入り口が見えたとき、健太は気づいた。仲間の一人がいない。いつもふざけて皆を笑わせていた陽気な少年、トモヤがいなかった。「トモヤ!どこだ!」健太は叫んだが、声は森に吸い込まれ、返事はなかった。仲間たちは怯えきっており、誰も森に戻ろうとはしなかった。健太は震える足で集落に戻り、両親に助けを求めた。村の大人たちが懐中電灯と猟銃を持って森に捜索に入ったが、トモヤの姿はどこにもなかった。まるで森に喰われたかのように。
それから数日後、健太は夜な夜な悪夢にうなされた。夢の中で、トモヤが森の奥で立っている。だが、その顔はひどく青白く、目は虚ろで、口元には不気味な笑みが浮かんでいた。「健太、来いよ。こっちは静かだよ」と囁く声が、頭の中に響き続ける。ある夜、健太は耐えきれず、こっそり家を抜け出し、森の入り口に立った。懐中電灯を握りしめ、震える足で一歩を踏み出した瞬間、背後から母の叫び声が聞こえた。「健太!行っちゃダメ!」
母に引き戻された健太だったが、その夜、家の窓の外でカサカサという音が聞こえた。窓の外を覗くと、暗闇の中に白い顔が浮かんでいた。トモヤだった。だが、その目は人間のものではなく、黒い穴のように光を吸い込んでいた。健太は叫び声を上げ、母が駆けつけたとき、窓の外には誰もいなかった。ただ、窓ガラスには、細い指で引っかいたような無数の傷が残されていた。
それから、健太の家族は集落を離れた。だが、どこへ行っても、夜になるとカサカサという音が聞こえるようになった。健太は大人になっても、あの森のことを口にすることはなかった。ただ、時折、誰もいない部屋で、トモヤの声が聞こえる気がした。「健太、来いよ。こっちは静かだよ」。
今もその森は、集落の外れに静かに佇んでいる。地元の者は誰も近づかず、観光客にも決して勧めない。なぜなら、森に入った者たちが口にするのは、決まって同じ言葉だ。「あそこには、音がない」。そして、帰ってこなかった者たちの名前は、集落の古い石碑に刻まれているという。だが、その石碑を確かめに行った者は、誰もいない。