富山県の山間部にひっそりと佇む小さな集落。そこに住む私は、都会の喧騒を離れ、静かな暮らしを求めて数年前に引っ越してきた。集落には古い公民館があり、普段はほとんど使われていないが、年に数回の集会や子供たちの遊び場として機能していた。公民館は木造の平屋で、畳の部屋がいくつかあり、裏手には小さな神社の鳥居が見える。地元の人たちは「昔からある場所だから」と、特に気に留める様子もないが、どこか近寄りがたい雰囲気が漂っていた。
その夜、私は集落の役員として公民館の鍵を閉めにいくことになった。普段なら誰かと一緒に行くのだが、その日は皆忙しく、私一人で向かうことになった。時計はすでに夜の9時を回っていた。秋の夜は冷え込み、公民館までの道のりは、街灯もまばらな細い道を歩く。懐中電灯の光が、足元の枯れ葉を照らし、ガサガサと音を立てる。風が木々を揺らし、遠くでフクロウの鳴き声が響く。どこか不気味な雰囲気が漂っていたが、ただの気のせいだと自分に言い聞かせた。
公民館に着くと、玄関のガラス戸はすでに施錠されていた。念のため確認しようと、建物の周りを一周することにした。裏手の窓から中を覗くと、暗闇に畳の部屋がぼんやりと見える。誰もいないはずなのに、なぜか違和感を覚えた。しばらく立ち尽くしていると、突然、建物の中から「カタン」と小さな音が聞こえた。驚いて耳を澄ます。風の音か、木の軋む音か。もう一度、注意深く聞くと、今度ははっきりと「トン、トン」という足音が聞こえてきた。まるで誰かが畳の上を歩いているような、規則的な音だ。
「誰かいるのか?」と声をかけようとしたが、喉が詰まって言葉が出なかった。公民館に誰もいないことはわかっていた。集落の人は皆、家にいる時間だ。鍵もかかっている。なのに、足音は止まらず、むしろ近づいてくるようだった。懐中電灯を手に持ち、窓に近づいて中を照らしてみた。光が畳の部屋を照らすと、そこには誰もいなかった。だが、足音はまだ聞こえる。トン、トン、トン。まるで私のすぐ近くで、誰かが歩いているかのように。
恐怖が背筋を這い上がる。私は急いで玄関に戻り、鍵がしっかり閉まっていることを確認した。間違いなく施錠されている。なのに、足音は止まらない。公民館の外にいる私の周りで、誰かが歩いているような錯覚に陥った。振り返っても、誰もいない。懐中電灯の光を周囲に振り回したが、ただ暗闇が広がるだけだ。それでも、足音は続く。トン、トン、トン。今度は公民館の中からではなく、私のすぐ後ろから聞こえてきた。
走って逃げようとしたが、足がすくんで動けない。心臓が早鐘のように鳴り、冷や汗が額を伝う。ふと、背後の神社の方を見ると、鳥居の影が月明かりに揺れている。そこに、ぼんやりとした人影のようなものが立っている気がした。一瞬のことだったが、確かに見た。白い着物を着た、長い髪の女のような影。だが、目を凝らすと、そこには何もなかった。足音も、突然ピタリと止まった。
その場から逃げるように家に戻った私は、夜通し眠れなかった。翌朝、集落の古老にその話をすると、彼は少し顔を曇らせながら言った。「あの公民館の裏の神社は、昔、村の若い女が身を投げた場所だよ。理由は誰も知らないけど、時々、夜に足音が聞こえるって話はあったな」。その言葉を聞いて、背筋が凍りついた。古老は続けた。「気にしないのが一番だ。あんまり詮索すると、連れてかれちまうよ」。
それ以来、私は夜に公民館に近づくのをやめた。だが、静かな夜に家にいると、時折、遠くからトン、トンという足音が聞こえることがある。窓の外を見ても、誰もいない。ただ、公民館の方向に目をやると、暗闇の中で何かが見ているような気がして、すぐにカーテンを閉めるのだ。
数ヶ月後、集落の子供たちが公民館で遊んでいたとき、ひとりの子が奇妙なことを言った。「ねえ、お姉さんがいたよ。白い服着て、長い髪の。畳の部屋で笑ってた」。他の子たちは笑いものにしていたが、私はその話を聞いて震えが止まらなかった。あの夜の足音と人影が、頭から離れない。今でも、公民館の前を通るとき、背後に誰かがいるような気がして、つい振り返ってしまう。だが、そこにはいつも誰もいない。ただ、風が木々を揺らし、遠くでフクロウが鳴くだけだ。
それでも、私は知っている。あの足音は、決して私の気のせいではなかった。公民館の裏の神社には、何かがいる。そして、それは私を見ている。