沼の底から這い出る影

モンスターホラー

それは、群馬の山奥にひっそりと佇む小さな集落での出来事だった。

今から10年ほど前、2015年の夏。俺は大学時代の友人と共に、群馬県の山間部にある知人の別荘に遊びに行った。集落は、深い森に囲まれ、近くには「黒沼」と呼ばれる古い沼があった。地元民の間では、黒沼には近づかない方がいいという言い伝えがあったが、俺たちは都会育ちの若者特有の好奇心で、その話を笑いものにしていた。

別荘に到着したのは、夕暮れ時。赤く染まった空が、沼の水面に映り、どこか不気味な美しさを放っていた。友人の一人が「せっかく来たんだから、沼を見に行こうぜ」と言い出し、俺たちは懐中電灯を手に、軽い気持ちで沼へと向かった。道中、木々の間を抜ける風が妙に冷たく、虫の鳴き声すら途切れがちだったが、誰もその違和感を口にはしなかった。

沼に着くと、水面はまるで鏡のように静かで、俺たちの足音だけが響いた。友人の一人が、ふざけて石を投げ込むと、水面に波紋が広がり、すぐに消えた。だが、その直後、沼の中央あたりで何か大きなものが動いたような気がした。ゴポッ、という水音。俺たちは顔を見合わせ、冗談めかして「魚でもいるんじゃない?」と笑った。でも、どこか心の底に引っかかるものがあった。

その夜、別荘に戻ってバーベキューを楽しみ、酒を飲みながら他愛もない話をしていた。だが、深夜を過ぎた頃、異変が起きた。窓の外から、かすかな音が聞こえてきたのだ。最初は風か何かだと思ったが、音は徐々に大きくなり、まるで誰かが水をかき分けるような、グチャグチャとした湿った音に変わっていった。友人の一人が「外、見てくる」と立ち上がったが、なぜか誰もついていこうとしなかった。俺も、胸の奥でざわざわとした不安が広がっていた。

数分後、そいつが真っ青な顔で戻ってきた。「沼のほう…なんか変だ」と震える声で言う。懐中電灯を手に、俺たちは恐る恐る外に出た。沼までの道は、昼間とは打って変わって暗く、木々がまるで生きているかのように揺れていた。沼に近づくと、あの音がまた聞こえてきた。グチャ、グチャ、グチャ…。まるで何か重いものが水面を這うような音だ。

懐中電灯で水面を照らすと、そこには何もなかった。だが、俺の背筋に冷たいものが走った。光の端に、黒い影のようなものが一瞬だけ映った気がしたのだ。友人の一人が「気のせいだろ」と笑い声を上げたが、その声はどこか震えていた。俺たちは急いで別荘に戻り、ドアに鍵をかけた。誰もが口には出さないが、同じことを感じていたはずだ。あの沼には、何かいる。

翌朝、俺たちは気分を変えようと、集落の古老に黒沼の話を聞いてみることにした。別荘の管理人を通じて、集落で一番年配の老婆に話を聞くことができた。彼女は、しわくちゃの手で茶をすすりながら、静かに話し始めた。「黒沼には、昔から『それ』が住んでる。人間の形をしてるけど、人間じゃない。沼の底で眠ってるけど、時々、腹を空かせて這い出してくるんだ」。彼女の目は、まるで過去の恐怖を思い出したかのように曇っていた。

老婆によると、数十年前、集落の若者が沼で溺れ死んだ事件があった。その若者の死体は見つからず、以来、沼の近くでは不思議なことが起こるようになったという。「夜中に沼から這い出して、獲物を探すんだ。見つけたら、沼の底に引きずり込む」。老婆はそう言って、俺たちに「もう沼には近づくな」と忠告した。

その話を聞いて、俺たちは半信半疑だったが、さすがに気味が悪くなり、別荘で過ごすことにした。だが、その夜、事態は一変した。深夜、寝静まった別荘に、再びあのグチャグチャという音が響いた。今度は、明らかに家の近くから聞こえてくる。窓の外を覗くと、沼の方向からゆっくりと近づいてくる影が見えた。それは、人の形をしていたが、動きがどこか不自然だった。腕が異様に長く、背中が異常に曲がっている。懐中電灯の光を当てると、影は一瞬で消えたが、俺たちの心臓はバクバクと鳴っていた。

「逃げよう」。誰かがそう呟き、俺たちは急いで荷物をまとめ、車に飛び乗った。だが、エンジンをかけようとした瞬間、車が動かない。バッテリーが上がったのか、原因はわからなかったが、まるで何かに妨害されているかのようだった。パニックになりながら、俺たちは徒歩で集落の中心部を目指した。道中、背後からあのグチャグチャという音が追いかけてくる。振り返る勇気は誰にもなかった。

やっとの思いで集落の小さなコンビニにたどり着き、店員に助けを求めた。だが、店員は俺たちの話を聞いても、ただ「沼には近づくな」と繰り返すだけだった。夜が明けるまで、俺たちはコンビニの奥で震えながら過ごした。朝になり、車を確認しに行くと、バッテリーは問題なく動き、まるで昨夜のことは夢だったかのようだった。

俺たちはその日のうちに別荘を後にし、二度とその集落には戻らなかった。あの影が何だったのか、俺には今もわからない。ただ、時折、夜中に目を覚ますと、遠くでグチャグチャという音が聞こえる気がする。あの沼の底で、何かがまだ俺たちを待っているような、そんな感覚が拭えないのだ。

数年後、ネットでその集落について調べたが、黒沼に関する情報はほとんどなかった。ただ、地元の掲示板に、似たような体験談が一つだけ投稿されていた。投稿者は、沼の近くで「人間の形をした何か」を見たと書いていたが、その投稿はすぐに削除されていた。あの沼には、本当に何かいるのかもしれない。いや、いるのだ。俺は今でもそう確信している。

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