明治の福島県、奥深い山間にひっそりと佇む村があった。そこは、霧が常にかかり、日の光も届かぬような場所。村人たちは古いしきたりを守り、夜になると決して外に出なかった。特に、村外れに建つ古い屋敷には近づくことすら禁じられていた。その屋敷は、かつてある豪農の家だったが、数十年前に一家が忽然と姿を消して以来、誰も足を踏み入れることはなかった。屋敷の周囲には不気味な静寂が漂い、夜な夜な窓から青白い光が漏れるという噂が囁かれていた。
村に住む若者、辰次は好奇心旺盛な男だった。村の古老たちが語る「鬼火の屋敷」の話に、半信半疑ながらも心を惹かれていた。ある晩、酒の勢いもあって、仲間たちと「屋敷に入ってみよう」と言い出した。仲間たちは気乗りしない様子だったが、辰次は「怖いものなどない」と笑い、単身で屋敷へと向かった。月明かりすら届かない闇の中、提灯の灯りを頼りに、朽ちかけた門をくぐった。
屋敷の門をくぐると、冷たい風が辰次の頬を撫でた。まるで誰かに見られているような感覚が背筋を這う。門を抜けると、雑草に覆われた庭が広がり、屋敷の玄関は半ば崩れ落ちていた。辰次は提灯を高く掲げ、慎重に足を進めた。軋む床板の音が、静寂を切り裂く。屋敷の中は、まるで時間が止まったかのようだった。埃にまみれた調度品、破れた障子、そして空気中に漂うカビの匂い。だが、それ以上に辰次の注意を引いたのは、どこからともなく聞こえてくる微かな音だった。まるで誰かが囁くような、かすかな声。
「誰だ…?」
辰次は思わず声を上げたが、答えはなかった。ただ、声は一層はっきり聞こえるようになった。「おいで…おいで…」と、まるで誘うような調子で。辰次の心臓は早鐘を打ち、提灯を持つ手が震えた。それでも、好奇心が恐怖を上回り、彼は声のする方へと足を進めた。屋敷の奥、かつて主の居間だったと思われる部屋にたどり着いた。そこには、埃をかぶった仏壇と、その前にぽつんと置かれた小さな鏡があった。鏡の表面は曇り、まるで何かを封じ込めているかのようだった。
辰次が鏡に近づくと、突然、部屋の空気が重くなった。提灯の炎が揺れ、影が不自然に伸び縮みする。鏡の表面に、ぼんやりとした人影が映った。辰次は息を呑んだ。それは彼自身の姿ではなかった。長い髪を垂らし、青白い顔をした女が、鏡の中からじっと辰次を見つめていた。彼女の目は空洞のようで、口元には不気味な笑みが浮かんでいた。
「お前…ここに来てしまったな…」
声は鏡から直接響いてきた。辰次は後ずさりしようとしたが、足が動かない。まるで地面に縫い付けられたかのように。女の姿は鏡から這い出し、ゆらゆらと辰次に近づいてきた。その手は異様に長く、爪は鋭く尖っていた。辰次は叫ぼうとしたが、喉が締め付けられるように声が出なかった。女の冷たい手が辰次の肩に触れた瞬間、彼の意識は暗闇に飲み込まれた。
翌朝、村人たちが辰次を探しに屋敷へ向かった。彼らは屋敷の奥で、仏壇の前に倒れている辰次を見つけた。彼は生きてはいたが、目は虚ろで、髪は一晩で真っ白になっていた。辰次はそれ以来、口を利くことはなかった。ただ、時折、震える手で鏡を指さし、「鬼火…鬼火…」と呟くだけだった。村人たちは屋敷を封鎖し、二度と近づかぬよう厳命した。しかし、それでもなお、夜になると屋敷の窓から青白い光が漏れ、村人たちの恐怖を煽り続けた。
村の古老は語る。あの屋敷には、かつて欲に取り憑かれた女が住んでいたと。彼女は家族を裏切り、呪われた鏡に魂を封じ込められた。彼女の魂は鬼火となり、屋敷を訪れる者を誘い、取り込むのだという。辰次が見たのは、その鬼火の化身だったのかもしれない。今もなお、屋敷は霧の中に佇み、訪れる者を待ち続けている。
村人たちは決して口にしないが、誰もが知っている。あの屋敷に足を踏み入れた者は、二度と元の自分には戻れないのだと。