数年前、和歌山県の山深い集落に住む男がいた。名前は仮に太郎としよう。彼は地元の林業に従事するごく普通の男だったが、ある晩、人生を揺さぶる出来事に遭遇した。
その日は秋も深まる10月の終わり。山は紅葉に染まり、夜になると冷たい風が谷間を抜ける。太郎は同僚たちと遅くまで山仕事に追われ、帰路についたのは夜の9時を過ぎた頃だった。車を持たない彼は、集落へと続く細い山道を、懐中電灯の明かりを頼りに歩いていた。道は舗装されておらず、両側には鬱蒼とした杉林が広がる。普段なら慣れた道のりだが、その夜はどこか様子が違った。
空には月がなく、星さえ雲に隠れて闇が濃い。懐中電灯の光は頼りなく、足元の石ころを照らすのがやっとだった。歩き始めて10分ほど経った頃、太郎は奇妙な感覚に襲われた。まるで誰かに見られているような、背筋に冷たいものが走る感覚だ。彼は振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、遠くでフクロウの鳴き声が響くだけだった。
「気のせいか…」と呟き、太郎は歩みを進めた。しかし、しばらくすると、今度は空気が重くなった。まるで水の中にいるような、息苦しい感覚だ。懐中電灯の光がふと揺らぎ、辺りを見回すと、道の先に白い霧が立ち込めているのが見えた。この辺りは霧が出やすい土地ではあるが、こんな時間に、しかもこんな濃い霧は珍しかった。
霧はまるで生き物のようにうごめき、道を塞ぐように広がっていく。太郎は一瞬立ち止まったが、集落まであと少し。引き返す選択肢はなかった。彼は意を決して霧の中へと足を踏み入れた。すると、霧の中は驚くほど静かだった。足音さえ吸い込まれるような、不自然な静寂。懐中電灯の光は霧に飲み込まれ、視界は数メートル先までしか届かない。
その時、かすかな音が聞こえた。サク、サク。誰かが落ち葉を踏む音だ。太郎は凍りついた。こんな時間に、この山道を歩く人間はいない。猟師や山仕事の仲間なら声をかけるはずだ。だが、音は近づいてくる。サク、サク。ゆっくり、だが確実に。太郎は懐中電灯を音の方向に振り向けたが、霧が厚すぎて何も見えない。
「誰だ!?」と叫んだ瞬間、音がピタリと止まった。代わりに、背後から冷たい息が首筋にかかった。ゾッとした太郎が振り返ると、そこには誰もいない。だが、霧の中にぼんやりと人影のようなものが浮かんでいる気がした。いや、人影ではない。もっと曖昧で、不気味な輪郭。まるで人間の形を模しているが、どこか歪んだ何かだ。
太郎の心臓はバクバクと鳴り、足がすくんだ。逃げなければ。そう思った瞬間、霧の中から低い声が響いた。「…ここに…いる…」。それは男とも女ともつかぬ、まるで風が擦れるような声だった。太郎は反射的に走り出した。懐中電灯を握りしめ、霧の中を突き進む。だが、道はいつもの山道とは違っていた。曲がり角がなく、ただ真っ直ぐ続く。まるで果てしない迷路に迷い込んだようだった。
どれだけ走っただろう。息が上がり、足がもつれそうになった時、突然霧が晴れた。目の前には見覚えのない古い鳥居が立っていた。苔むした石の鳥居は、まるで何百年もそこにあったかのように風化していた。だが、太郎はこの山にこんな鳥居があることを知らなかった。集落の人間なら誰もが知るような目立つものは、記憶にないはずがない。
鳥居の先には、朽ちかけた社が佇んでいる。社の周りは異様に静かで、虫の音すら聞こえない。太郎は立ち尽くした。逃げるべきか、進むべきか。だが、背後からは再びあのサク、サクという音が近づいてくる。選択の余地はなかった。彼は鳥居をくぐり、社へと向かった。
社の扉は半開きで、中は真っ暗だった。懐中電灯で照らすと、埃まみれの床と、祭壇らしきものが見えた。だが、祭壇には神像もなければ、鏡や剣もない。ただ、黒ずんだ布が置かれているだけだった。太郎が近づくと、布が微かに動いた。風もないのに、まるで呼吸しているかのように。
「…見つけた…」。声が社の中に響き、太郎は飛び上がった。振り返ると、入口に白い着物を着た女が立っていた。顔は霧のようにぼやけ、目だけが異様に光っている。彼女の足元は地面に触れていない。浮いているのだ。太郎は叫び声を上げ、祭壇に背を押し付けた。だが、女はゆっくりと近づいてくる。彼女の手が伸び、冷たい指が太郎の頬をかすめた。その瞬間、頭の中に断片的な映像が流れ込んできた。
そこは同じ山だった。だが、時代はもっと古い。女が泣きながら走っている。背後からは男たちの怒号。そして、血。彼女は崖の縁で追いつめられ、絶望の叫びを上げて落ちていく。映像はそこで途切れた。太郎は気づくと床に倒れていた。女の姿は消え、社の中は再び静寂に包まれていた。
どれだけ時間が経ったのか。太郎が目を覚ますと、空は薄明るくなっていた。鳥居も社も消え、ただの山道に寝転がっていた。懐中電灯は電池切れで光らない。彼は這うようにして集落に戻り、仲間に助けを求めた。だが、誰も太郎の話を信じなかった。あの山に鳥居も社もないことは、皆が知っていたからだ。
それから数日、太郎は高熱にうなされた。夢の中ではあの女が何度も現れ、「一緒に…」と囁く。医者に診せても原因はわからず、ただ「過労だろう」と片付けられた。だが、太郎の身体は日に日に衰弱していった。まるで命そのものが吸い取られているかのように。
ある夜、太郎はふと目を覚ました。部屋の隅に、あの女が立っていた。霧のような顔が、初めてはっきりと見えた。彼女は笑っていた。いや、泣いているようにも見えた。「お前も…ここに…」彼女の声が響く。次の瞬間、太郎の意識は途切れた。
翌朝、集落の人間が太郎の家を訪れると、彼は布団の中で冷たくなっていた。医者は心臓発作と診断したが、集落の古老はこう呟いた。「あの山には、昔、身投げした女がいた。恨みを抱いたまま、彷徨っている…」。以来、集落の人間はあの山道を夜に通ることを避けるようになった。霧が立ち込める夜は、なおさらだ。
今でも、和歌山のその山奥では、霧の深い夜にサク、サクという音が聞こえるという。もしその音を聞いたら、決して振り返ってはいけない。彼女が、そこにいるかもしれないから。