今から数十年前、秋田県の山深い村に、ひっそりと佇む古い寺があった。村人たちはその寺を「鈴の寺」と呼び、近づくことを避けていた。寺の裏手には鬱蒼とした杉林が広がり、昼間でも陽光が届かず、湿った空気が漂っていた。寺はかつて栄えたが、ある事件をきっかけに住職が姿を消し、以来、廃寺となっていた。村の古老たちは、寺の境内で夜な夜な鈴の音が響くと囁き、子供たちは「鈴の音を聞いた者は二度と戻らない」と語り継いでいた。
その村に、都会から移り住んできた若い男がいた。彼は村の外れに小さな家を借り、猟師として生計を立てていた。男は無口で、村人たちとあまり交流を持たなかったが、好奇心旺盛で、村の言い伝えには興味を示していた。ある晩、村の酒場で古老が鈴の寺の話をすると、男は目を輝かせて聞き入った。「そんな話、ただの迷信だろ」と笑いながらも、彼の心には何か引っかかるものがあった。
数日後のこと。男は猟に出かけ、獲物を追ううちに鈴の寺の近くまで足を踏み入れた。夕暮れが迫り、霧が山を覆い始めていた。寺の境内は苔むした石畳が広がり、朽ちかけた本堂の屋根には穴が空いていた。男は「せっかく来たんだ、ちょっと見てみるか」と軽い気持ちで境内に入った。すると、どこからともなく、かすかな鈴の音が聞こえてきた。キン、キン、と澄んだ音が空気を震わせ、男の耳に届いた。最初は風のせいかと思ったが、音は次第に大きく、近くに感じられた。
男は音のする方向へ歩みを進めた。本堂の裏、杉林の奥に小さな祠があった。祠の前には古い鈴が吊るされ、風もないのに微かに揺れている。男は不思議に思い、鈴に手を伸ばそうとしたその瞬間、背後でガサッと音がした。振り返ると、誰もいない。だが、明らかに何かが動いた気配があった。男の心臓は早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝った。「気のせいだ」と自分を落ち着けようとしたが、鈴の音は止まず、まるで何かを呼び寄せるように響き続けた。
その夜、男は家に帰り着いたが、落ち着かなかった。眠ろうとすると、耳元で鈴の音が聞こえる気がした。夢とも現実ともつかない中で、彼は寺の境内を彷徨う自分の姿を見た。夢の中の彼は祠の前に立ち、鈴を手に持っていた。すると、地面から黒い影が這い出し、彼の足元に絡みついてきた。影は女の形をし、長い髪が地面を這い、目だけが異様に白く光っていた。女は無言で男を見つめ、ゆっくりと口を開いた。そこには歯がなく、ただ黒い穴が広がっていた。男は叫び声を上げて目を覚ました。
翌朝、男は村の古老に夢のことを話した。古老は顔を青ざめ、「その寺には近づくな」と警告した。古老の話では、数十年前、寺に仕えていた若い巫女が、村の男に裏切られ、自ら命を絶ったという。その後、寺で怪奇現象が相次ぎ、住職も姿を消した。巫女の霊が鈴に宿り、寺に近づく者を呪うのだと。男は半信半疑だったが、夜になるたびに鈴の音が耳にこびりつき、眠れなくなった。
数日後、男は再び寺へ向かった。恐怖を振り払い、真相を確かめたかったのだ。夜の寺は昼間以上に不気味で、月明かりすら届かない闇が広がっていた。男は懐中電灯を手に本堂の裏へ進んだ。祠の前に立つと、鈴は再び鳴り始めた。キン、キン、という音が、まるで男を誘うように響く。男は意を決して鈴に触れた瞬間、強烈な冷気が体を貫いた。懐中電灯が点滅し、消えた。暗闇の中で、女の声が囁いた。「なぜ…来た…」
男は凍りついた。声は耳元で、まるで首筋に息がかかるようだった。振り返ると、長い髪の女が立っていた。顔は見えず、ただ白い目だけが闇に浮かんでいた。男は逃げようとしたが、足が動かない。女の手がゆっくりと伸び、男の胸に触れた。その瞬間、男の意識は途切れた。
翌朝、村人たちが寺の境内で男の姿を見つけた。彼は祠の前で倒れ、目は見開かれたまま、口から泡を吹いていた。手に握られていたのは、錆びついた古い鈴だった。村人たちは急いで男を運び出したが、彼は二度と目を覚ますことはなかった。医者は心臓発作と診断したが、村の古老たちは「鈴の呪いだ」と囁き合った。
それ以来、鈴の寺に近づく者はさらに減った。だが、村の外れで夜になると、かすかな鈴の音が聞こえることがあるという。村人たちは窓を閉め、耳を塞ぐ。音を聞く者は、決まって寺の夢を見ると言われている。そして、その夢から目覚めた者は、決まって胸に冷たい手の跡が残っているという。
今も、秋田の山奥で、鈴の音は響き続けている。あなたがもし、夜道でキン、キン、という音を聞いたなら、決して振り返ってはいけない。振り返れば、そこには白い目があなたを見つめているかもしれない。