明治の頃、群馬の山深い峠に、寂れた村があった。村の名は誰もが口にするのを避け、ただ「峠の里」と呼ばれていた。そこには、村外れの森にひっそりと佇む古井戸があった。苔むした石組みに、朽ちかけた木の蓋。村人たちはその井戸を「見ずの井戸」と呼び、決して近づかなかった。なぜなら、井戸の底から声が聞こえるというのだ。夜な夜な、囁くような、泣くような、誰とも知れぬ声が。
村に住む少年、健太は、好奇心旺盛な15歳だった。父親は炭焼き、母親は機織りで生計を立てる貧しい家だったが、健太は山や川を駆け回り、村の言い伝えを笑いものにしていた。「井戸の声なんて、ただの風の音さ」と、仲間たちに豪語しては、夜の森に忍び込む度胸試しを繰り返していた。
ある夏の夜、健太は村の若者たちと賭けをした。「見ずの井戸の蓋を開けて、中を覗いてやる」と。仲間たちは半信半疑だったが、健太の勢いに押され、揃って森へ向かった。月明かりは薄く、木々の間を縫う風が冷たく頬を撫でる。提灯の明かりだけが、闇に揺れる一行を照らしていた。
井戸に着くと、健太は得意げに木の蓋に手をかけた。仲間たちが「やめろよ」と囁く中、彼は力任せに蓋を引き上げた。軋む音が夜の静寂を切り裂き、井戸の底から冷気が這い上がってくる。健太は提灯を掲げ、井戸の奥を覗き込んだ。暗闇が広がり、底は見えない。ただ、どこか遠くで水が滴る音が聞こえた。仲間たちは息を殺し、健太の背後で固まっていた。
「何もねえよ! ほら、ただの井戸だ!」健太は笑い声を上げたが、その声はどこか震えていた。と、その時、井戸の底からかすかな音が響いた。囁きだ。女の声とも、子どもの声ともつかぬ、掠れた声。「…見ず…見ず…」と繰り返す。健太の笑顔が凍りつき、提灯を持つ手が震えた。仲間の一人が叫び声を上げ、皆一斉に逃げ出した。だが、健太は動けなかった。井戸の底から這い上がる声が、彼の耳元で囁き続けていた。「お前が見た…お前が見た…」
翌朝、健太は村に戻らなかった。仲間たちは恐れおののき、村の古老に助けを求めた。古老は顔を曇らせ、「見ずの井戸を覗いた者は、必ず連れていかれる」と呟いた。彼の話では、明治の初め、村に疫病が流行った時、村人たちは神の怒りを鎮めるため、生贄を井戸に捧げたという。選ばれたのは、村一番の美人と謳われた娘だった。彼女は泣き叫びながら井戸に沈められ、その日から井戸は「見ずの井戸」と呼ばれるようになった。覗いた者を、彼女が引きずり込むのだと。
村人たちは健太を探しに森へ向かったが、井戸の周りには彼の提灯だけが落ちていた。蓋は元通り閉じられ、まるで何事もなかったかのよう。だが、井戸の縁には、濡れた手形がいくつも残されていた。まるで誰かが這い上がろうとしたかのように。
それから数日、村は異様な静けさに包まれた。健太の家族は泣き崩れ、村人たちは井戸に近づくことをさらに恐れた。だが、奇妙なことに、夜になると村のあちこちで囁き声が聞こえるようになった。家の裏、畑の隅、川のほとり。どこからともなく、「見ず…見ず…」と響く声。村人たちは恐怖に震え、戸を閉ざして眠れぬ夜を過ごした。
ある夜、健太の妹、さくらが異変に気づいた。家の外で、兄の声が聞こえたのだ。「さくら…助けて…」と、弱々しく、まるで井戸の底から響くように。さくらは恐る恐る戸を開け、闇に目を凝らした。そこには誰もいない。ただ、家の前の道に、水たまりのような跡が続いていた。まるで、誰かが濡れた足で歩いたように。さくらは震えながら戸を閉め、母にすがりついた。だが、その夜から、さくらの夢に兄の姿が現れるようになった。ずぶ濡れで、目が白く濁り、口元に不気味な笑みを浮かべながら、「一緒に来いよ」と囁くのだ。
村の異変は止まらなかった。井戸の囁きは夜ごとに大きくなり、ついには昼間にも聞こえるようになった。村人たちの精神はすり減り、互いに疑心暗鬼に陥った。「誰かが井戸を怒らせた」「あの家が呪われている」と、囁き合った。やがて、村を出る者も現れ始めた。だが、峠を越えた先にたどり着いた者は、誰もいなかった。まるで、峠そのものが村人たちを閉じ込めているかのように。
月日が流れ、村は次第に廃れていった。家々は朽ち、畑は荒れ、井戸だけが森の中で静かに佇んでいた。村を訪れた旅人が、井戸の蓋を開けて覗いたという話が残っている。彼は村のことを知らず、ただ水を求めて井戸を覗いた。だが、その旅人もまた、村から出ることはなかった。井戸の底から聞こえた声に導かれ、森の奥へと消えたという。
今も、群馬の山奥、名もなき峠の森に、その井戸は残っているという。地元の者は誰も近づかず、道標にも記されない。だが、夜道を歩く者、森に迷い込んだ者が、ふと耳にするという。遠くから、かすかに、「見ず…見ず…」と囁く声を。そして、井戸の近くを通った者は、決まって同じことを言う。井戸の底から、誰かがこちらを見ている、と。
この話は、群馬の古老から古老へ、ひそかに語り継がれている。決して覗いてはいけない。決して近づいてはいけない。だが、好奇心は時に人を狂わせる。あなたがもし、夜の山道で古井戸を見つけたら、どうするだろうか。蓋を開け、底を覗いてみるだろうか。それとも、足早に立ち去るだろうか。井戸は静かに、ただ静かに、そこに在り続ける。