30年前、鹿児島県の山深い集落に、都会から引っ越してきた若い夫婦がいた。夫は教員、妻は小さな雑貨店で働きながら、静かな田舎暮らしを夢見て移り住んだのだ。集落は霧が濃く、昼間でも薄暗い谷間にあり、古い木造家屋が点在していた。夫婦が借りた家は、集落の外れに建つ一軒家で、庭の奥には苔むした石祠があった。地元の人々は親しげだったが、その祠については誰も多くを語らず、ただ「触れない方がいい」とだけ告げた。
ある晩、夫が学校から遅く帰宅すると、妻が怯えた顔で出迎えた。「昼間、庭で変な音がしたの。鈴の音みたいな、チリンチリンって……でも、誰もいなかった」と彼女は震えながら言った。夫は疲れていたこともあり、「風のせいじゃないか」と軽く流した。しかし、その夜、寝室の窓の外でかすかに鈴の音が響いた。チリン、チリン。まるで誰かが近くで小さな鈴を振っているようだった。夫婦は顔を見合わせ、息を潜めたが、音は次第に遠ざかり、やがて消えた。
翌朝、夫が庭を見ると、石祠の前に小さな鈴が落ちていた。錆びついた古い鈴で、紐は朽ち果てていた。妻は「こんなもの、昨日までなかった」と青ざめた。夫は気味が悪いと感じつつも、鈴を祠の脇に置いて学校へ向かった。その日、集落の古老に鈴のことを尋ねると、老人は顔をこわばらせ、「その祠には昔、巫女が祀られていた。鈴は彼女のものだ。触らん方がいい」とだけ言って口を閉ざした。
その夜から、鈴の音は毎晩のように聞こえるようになった。最初は庭の方向だったが、夜が深まるにつれ、家の廊下や屋根裏から聞こえてくることもあった。妻は神経をすり減らし、夫も睡眠不足で苛立つようになった。ある晩、妻が叫び声を上げた。「誰かいる! 窓の外に女の人が!」夫が飛び起き、窓に駆け寄ったが、そこには誰もいなかった。ただ、霧が異様に濃く、庭の石祠がかすかに見えた。妻は泣きながら、「白い着物の女が、鈴を持ってこっちを見ていた」と訴えた。
夫は翌日、集落の神社の神主に相談しに行った。神主は渋い顔でこう語った。「その祠は、昔、村のために命を捧げた巫女のものだ。彼女は村を守るため、禁忌を犯して封印された。鈴は彼女の魂を繋ぎとめるもの。動かしたり、触ったりすると、彼女が目覚めることがある」。夫は鈴を動かしたことを告げ、謝罪したが、神主は「もう遅いかもしれない。祠にお参りして、許しを請いなさい」とだけ言った。
その夜、夫婦は祠の前で手を合わせ、鈴を元の場所に戻した。だが、霧が一層濃くなり、鈴の音は止まなかった。チリン、チリン。音はまるで家の中を歩き回るように移動し、時には耳元で響いた。妻は「彼女が怒ってる。私たちを許してくれない」と怯え、夫もまた、得体の知れない恐怖に苛まれた。ある晩、妻が突然起き上がり、放心したように庭へ向かった。夫が追いかけると、彼女は石祠の前で立ち尽くし、こうつぶやいた。「一緒に来て、だって……」。その瞬間、鈴の音がけたたましく鳴り響き、妻が倒れた。
妻は意識を失い、病院に運ばれたが、原因不明のまま数日後に目を覚ました。彼女は「白い着物の女が、私を霧の奥に連れていこうとした」と震えながら話した。夫婦はすぐに家を引き払い、集落を離れたが、妻はその後も夜中に鈴の音を聞くと言い、怯え続けた。夫は妻を守るため、必死に新しい生活を築こうとしたが、時折、霧の深い夜に、遠くからチリン、チリンと鈴の音が聞こえる気がしてならなかった。
今でも、その集落を訪れる者は少ない。霧が立ち込める夜、石祠の近くを通ると、かすかに鈴の音が聞こえるという。地元の人々は口を揃えて言う。「あの祠には、触れん方がいい。彼女はまだそこにいるから」。