祇園の闇に響く足音

サスペンスホラー

京都の夏は蒸し暑い。祇園の路地裏を歩くたびに、湿った空気が肌にまとわりつき、どこか不穏な気配が漂う。祇園といえば、華やかな花見小路や舞妓さんの姿が思い浮かぶが、その裏側には古い町屋がひしめき、夜になるとまるで別の世界が広がるような雰囲気が漂う。

私は大学で民俗学を専攻する学生だ。この夏、京都の古い伝承や怪談をフィールドワークで集める課題が出されていた。祇園には古くから伝わる怪奇譚が多く、興味をそそられた私は、夜の祇園を歩きながら話を集めることにした。カメラとICレコーダーを手に、路地を進む。石畳の道は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、時折、遠くで三味線の音が聞こえるだけだ。

最初に話を聞かせてくれたのは、路地裏の小さな茶屋で働く老女だった。彼女は、祇園の町屋には「見ず知らずの客」が夜な夜な現れるという話を教えてくれた。「あんた、夜遅くにここを一人で歩くのはやめときな。祇園の闇は、人の心を試すんやで」と、彼女は目を細めて言った。その言葉には、どこか重みがあったが、私は学術的な好奇心を抑えきれず、さらに話を聞こうと路地を進んだ。

夜も更け、時計は23時を回っていた。祇園の路地はますます暗くなり、街灯の光も届かない場所が増えてきた。ふと、背後からカツ、カツと硬い足音が聞こえた。振り向くと、誰もいない。石畳の反響だろうかと思ったが、足音は私の歩みに合わせて規則正しく響く。立ち止まると、足音も止まる。心臓がドクンと脈打ったが、気を取り直して歩き出した。すると、またカツ、カツと音が追いかけてくる。

「気のせいだ」と自分に言い聞かせ、路地を曲がった瞬間、目の前に白い着物の女が立っていた。長い黒髪が顔を覆い、表情は見えない。驚きで声が出なかったが、彼女はゆっくりと私の方に顔を上げた。顔がない。いや、顔があるはずなのに、目も鼻も口も、何も見えない。ただ真っ白な肌が、闇の中でぼんやりと浮かんでいる。恐怖で足がすくみ、動けなかった。彼女は一歩、私に近づく。その瞬間、カツ、カツという足音が再び響き始めた。だが、彼女の足元を見ると、地面に触れていない。まるで浮いているように見えた。

逃げなきゃ。そう思った瞬間、彼女の体がスッと消えた。まるで霧が晴れるように、跡形もなく。だが、足音は止まない。カツ、カツ、カツ。音はどんどん近づいてくる。私は走り出した。路地を抜け、細い道を駆け抜け、ようやく花見小路の明るい通りに出た。そこには観光客や酔客の笑い声が響き、さっきまでの恐怖が嘘のようだった。だが、振り返ると、路地の暗闇に何かが見えた気がした。いや、確かに見た。白い着物の裾が、闇に溶けるように揺れていた。

翌日、昨夜の出来事を大学の教授に話した。教授は真剣な顔でこう言った。「祇園には、古い怨念が残る場所が多い。特にあの辺りの路地は、昔、遊郭だった場所だ。恨みを抱いた女たちの魂が、夜な夜な彷徨うという話がある」。教授の言葉に、私は背筋が凍る思いだった。あの女は、誰だったのか。何を求めていたのか。

それから数日後、再び祇園を訪れた。同じ路地を歩きながら、ICレコーダーを手に話を集めようとしたが、あの夜の恐怖が頭を離れない。すると、突然、ICレコーダーが勝手に録音を始めた。ノイズ混じりの音声の中、かすかに女の声が聞こえた。「…返して…私の…」。ゾッとした。録音を何度も聞き返したが、声はそれ以上聞こえない。だが、確信した。あの女は、私に何か伝えようとしている。

その夜、宿に戻ると、奇妙なことが起きた。部屋の鏡に、かすかに白い影が映る。目を凝らすと、それはあの女だった。顔がない。なのに、なぜか私を見ている気がした。心臓が締め付けられるような恐怖の中、彼女の声が頭の中に直接響いた。「私の時間を返して…」。その瞬間、部屋の電気がチカチカと点滅し、鏡の中の影が一瞬で消えた。

私は祇園でのフィールドワークを中断し、京都を離れた。だが、あの足音と女の声は、今も私の耳に残っている。祇園の路地を歩くたびに、カツ、カツという音が聞こえる気がする。そして、夜、鏡を見るのが怖くなった。なぜなら、時折、鏡の端に白い着物の裾が映るからだ。

祇園の闇は、確かに私の心を試した。そして、私はまだその試練から逃れられていないのかもしれない。

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