沼の底に潜む影

モンスターホラー

新潟県の山間部、冬の終わりが近づく頃の話だ。2005年、雪解けの季節がやってきた。あの年、私は大学を卒業し、地元に帰って就職活動を始めていた。実家は新潟の小さな集落にあり、周囲を深い森と湿地に囲まれた、静かでどこか閉鎖的な場所だった。携帯の電波も不安定で、夜になると聞こえるのは風の音と、時折響く獣の遠吠えだけ。集落の古老たちは、昔から「沼には近づくな」と口を揃えて言っていた。特に、集落の外れにある「黒沼」と呼ばれる場所は、子供の頃から立ち入り禁止とされていた。

黒沼は、集落から少し離れた森の奥に広がる、底の見えない暗い水面を持つ沼だった。地元では、昔から「沼に引きずり込まれた者は二度と戻らない」という言い伝えがあった。子供の頃、友達と肝試しで近づいたことがあったが、沼の縁に立つだけで背筋が凍るような感覚に襲われ、すぐに逃げ帰った記憶がある。それ以来、誰もがその場所を避けていた。

その年、就職活動のストレスから逃れるように、私はよく集落の裏山を散歩していた。ある日、いつもの散歩道を外れ、ふと森の奥へと足を踏み入れた。雪解け水が地面を濡らし、足元がぬかるむ中、私は黒沼の近くまで来てしまった。そこは、まるで時間が止まったような静寂に包まれていた。水面は鏡のようで、周囲の木々の影を映し、どこか不気味な美しさがあった。なぜだか、その日は沼が私を呼んでいるような気がした。

水辺に近づくと、かすかに水が動く音が聞こえた。最初は風のせいだと思ったが、木々は静まり返り、空気は重く淀んでいた。目を凝らすと、水面に小さな波紋が広がっているのが見えた。何かが動いたのだ。魚か、と思った瞬間、水面が大きく揺れ、黒い影が一瞬だけ姿を現した。それは、蛇のような長い体に、うっすらと光る鱗を持っていた。だが、その頭部は異様だった。人の顔のような輪郭を持ち、目は白く濁り、口元には鋭い牙が覗いていた。私は息を呑み、動けなくなった。

その時、背後で枝が折れる音がした。振り返ると、集落の古老の一人が立っていた。70歳を過ぎたその男は、顔を青ざめさせ、震える声で言った。「早く離れなさい。あれは『沼の主』だ。見られたら終わりだよ。」私は恐怖で足がすくみながらも、彼に引きずられるようにしてその場を離れた。家に戻ると、母は私の顔を見るなり、「どこに行ってたの」と叫び、まるで私が死にでもしたかのように取り乱した。

その夜、古老が家を訪ねてきた。彼は、黒沼にまつわる話を語り始めた。数十年前、集落の若者が沼で溺れ、遺体が見つからなかったことがあった。それ以来、沼には「何か」が住み着き、夜な夜な水面を這う姿が目撃されるようになったという。古老の話では、それはかつての若者の怨念が、沼の底に潜む古い「何か」と結びついたものだとされていた。沼の主は、近づく者を水底に引きずり込み、その魂を喰らうのだと。

翌日、私は再び沼に近づいた。なぜだか、自分でも説明できない衝動に駆られていた。昼間なら大丈夫だろうと思ったのだ。だが、沼に着いた瞬間、昨日の恐怖が蘇った。水面は静かだったが、どこかで低いうめき声のような音が聞こえた。風ではない。沼の底から響いてくるような、まるで生き物の呻き声だった。私は慌てて後ずさりしたが、足元がぬかるみに沈み、バランスを崩した。その瞬間、水面が再び揺れ、黒い影がゆっくりと浮かび上がってきた。今度ははっきりと見えた。人の顔に似た頭部、濁った目、裂けた口から覗く無数の牙。そして、長い体が水面を這うように動いていた。

私は叫び声を上げ、這うようにして逃げ出した。背後で水音が響き、何かが追いかけてくる気配がした。振り返る勇気はなかった。どれだけ走ったか分からないが、集落に戻った時、服は泥だらけで、靴は片方なくなっていた。家に飛び込むと、母は再び取り乱し、「二度とあそこに行かないで」と泣きながら言った。その夜、私は高熱を出し、うなされながら見た夢の中で、沼の主が私の名前を呼ぶ声を聞いた。低く、粘りつくような声だった。

それから数日後、集落で異変が起きた。沼の近くで暮らす老夫婦が、夜中に姿を消したのだ。彼らの家は空っぽで、足跡だけが沼の方向に続いていた。集落の人々は口を閉ざし、誰もその話題に触れようとしなかった。私は恐怖に耐えきれず、就職が決まる前に集落を離れた。それ以来、故郷には一度も戻っていない。

今でも、時折あの沼のことを思い出す。静かな水面、黒い影、濁った目。あの生き物は、ただの幻だったのか。それとも、本当に沼の底に潜む「何か」だったのか。答えは分からない。だが、夜中に水音を聞くたび、あの低いうめき声が耳に蘇る。そして、どこかで私の名前を呼ぶ声が、遠くから聞こえてくる気がしてならない。

新潟の山奥には、まだ知られざる闇が潜んでいる。黒沼は、今も静かにそこにあり、近づく者を待ち続けているのかもしれない。

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