数年前の冬、山形県の山奥にある小さな集落に、俺は大学の研究のために足を踏み入れた。
山形の山々は、雪に覆われ、静寂がまるで生き物のようにそこかしこに漂っていた。
俺の目的は、気象学の観点から、局地的な異常気象のデータを集めることだった。
だが、その集落に着いた初日から、どこか空気が違うことに気づいた。
集落は、雪に埋もれた数十軒の家が点在するだけの場所だった。
古びた木造の家々は、まるで時間が止まったかのように静かで、住民たちは必要以上に口を開かない。
俺を迎え入れてくれたのは、集落の外れにある古い民宿を営む老夫婦だった。
「こんな時期に、よう来たな」と、老夫は笑顔を見せたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
初日の夜、民宿の二階にある部屋で、俺はノートパソコンにデータを打ち込んでいた。
窓の外は猛吹雪で、風が古い木枠をガタガタと揺らしていた。
その音に混じって、時折、妙な音が聞こえてきた。
まるで、誰かが雪を踏みしめるような、クチャ、クチャという音だ。
窓の外を見ても、雪と闇しか見えない。
「山の音だろ」と自分を納得させたが、心のどこかで落ち着かないものを感じていた。
翌日、集落の奥にある観測ポイントに向かうため、俺は雪をかき分けて山道を進んだ。
そこは、かつて鉱山だった場所の近くで、気象観測に最適な地点だと聞いていた。
だが、道中、妙なものを見つけた。
雪の上に、足跡があったのだ。
人間のものにしては大きすぎ、かといって動物のものとも思えない。
五本の指のような形が、雪に深く刻まれていた。
その足跡は、俺の進む方向に続いていた。
「ただの熊か何かだろ」
そう自分に言い聞かせ、観測機器を設置し終えた頃、遠くで低いうなり声のような音が聞こえた。
風の音にしては不自然で、まるで何かが喉を鳴らすような、生き物の声だった。
周囲を見回したが、雪と木々しか見えない。
急に冷や汗が背中を伝い、俺は急いで集落に戻った。
その夜、民宿の老夫に、昼間の足跡と音の話をしてみた。
すると、老夫の顔が一瞬強張った。
「山には、昔から妙な話がある」と、彼は低い声で話し始めた。
なんでも、数十年前、この集落の近くの鉱山で、作業員たちが原因不明の失踪を繰り返したらしい。
その頃、鉱山の奥で「何か」が目撃されたという。
それは人間の形をしているが、肌は青白く、目は光を反射し、異様に長い腕を持っていた。
作業員たちは、それを「山の影」と呼んで恐れた。
鉱山は閉鎖され、話は伝説として語り継がれたが、誰も本気にはしていなかった。
「そんな昔話だろ?」と俺は笑って話を流そうとしたが、老夫の目は真剣だった。
「若い衆、あの山には近づかない方がいい。データなんぞより、命の方が大事だ」
その言葉が、なぜか胸に重く響いた。
翌日、俺は意を決して再び山に向かった。
どうしてもデータが必要だったし、科学者として、迷信に惑わされるわけにはいかなかった。
だが、その日、雪はさらに深く、風は鋭く、まるで何かが俺を拒むように吹き荒れていた。
観測ポイントに着くと、設置した機器が壊されていた。
正確には、壊されたというより、引きちぎられたようにバラバラになっていた。
金属製の部品が、まるで紙のように裂かれていたのだ。
その時、またあの音が聞こえた。
クチャ、クチャ。
今度はすぐ近くから。
振り返ると、雪の向こうに、ぼんやりとした影が見えた。
人間の形をしていたが、異様に背が高く、腕が地面近くまで垂れ下がっている。
その顔は、雪の反射で青白く光り、目はまるでガラス玉のようにキラキラと輝いていた。
俺は恐怖で動けなかった。
影はゆっくりと近づいてくる。
その動きは、まるで重力を無視するような、滑るような動きだった。
「逃げろ!」と頭の中で叫ぶ声が響いた瞬間、俺は我に返り、雪を蹴散らして走り出した。
背後で、クチャ、クチャという音が追いかけてくる。
振り返る余裕すらなく、ただひたすら集落を目指した。
どれだけ走ったか分からない。
気づけば民宿の前に倒れ込んでいた。
老夫婦が慌てて俺を中に運び込み、暖炉の前で震える俺に毛布をかけてくれた。
「見たんだろ、山の影を」と老夫は静かに言った。
俺はただ頷くことしかできなかった。
その夜、俺は民宿を後にし、集落を去った。
データも機器も放棄して、ただ逃げるように街に戻った。
それ以来、あの集落には二度と足を踏み入れていない。
だが、今でも時折、夢の中であの青白い顔と光る目が現れる。
そして、耳元で囁くような、クチャ、クチャという音が響くのだ。
山形の山奥には、科学では説明できない何かが潜んでいる。
俺は今でもそう確信している。
あの影が何だったのか、知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちで今日も生きている。