明治の頃、鳥取の山深い谷間に、霧に閉ざされた小さな村があった。村人たちは外界とほとんど交流せず、独自の風習を守りながらひっそりと暮らしていた。村の名は地図にも記されず、旅人が迷い込むことすら稀だった。だが、村の外れにそびえる古い社と、そこに棲むとされる「何か」についての噂だけは、近くの町にまで囁かれていた。
その社は、苔むした石段の先にあり、朽ちかけた鳥居が傾いていた。村人たちは決して社の奥に足を踏み入れず、夜には近づくことすら避けた。なぜなら、社には「霧の主」と呼ばれる存在が棲み、夜な夜な村を見下ろしていると言われていたからだ。村の古老たちは、霧の主を「神」と呼ぶ者もいれば、「鬼」と恐れる者もいた。だが、誰もその正体を確かめた者はいなかった。いや、確かめた者は皆、霧の中に消えたのだ。
ある夏の夜、村に一人の若者がやってきた。名は分からぬが、都会から流れ着いた旅人で、学者らしい風貌だった。彼は村の風習や伝承を調べるため、しばらく村に滞在することを望んだ。村人たちはよそ者を警戒したが、若者の穏やかな物腰と知識に次第に心を許していった。だが、若者が社のことに興味を示すと、村人たちの態度は一変した。「あそこには近づくな」と、口々に警告したのだ。
若者は好奇心を抑えきれなかった。ある晩、村人たちが寝静まった頃、彼は提灯を手に社へと向かった。霧が濃く、足元もおぼつかない中、石段を登り始めた。村人たちの警告が頭をよぎったが、彼は笑いものだと自分に言い聞かせた。科学を信じる彼にとって、怪談など迷信にすぎなかった。
社の境内は静寂に包まれていた。提灯の明かりが霧に滲み、まるで世界が白い帳に閉ざされたようだった。鳥居をくぐり、拝殿の前に立った若者は、ふと異様な気配を感じた。背後から、かすかな衣擦れの音が聞こえたのだ。振り返っても誰もいない。だが、音は近づいてくる。まるで、誰かが霧の中を歩いてくるかのように。
「誰だ?」
若者が声を上げると、音はぴたりと止まった。だが、次の瞬間、拝殿の奥から低い唸り声が響いた。それは獣のようでもあり、人の呻き声のようでもあった。若者は恐怖に駆られながらも、好奇心が勝った。彼は拝殿の戸を開け、提灯を掲げて中を覗いた。
そこには、何もなかった。いや、何もなかったはずだった。だが、提灯の明かりが照らし出すのは、ただの闇ではなく、蠢く影だった。影は形を変え、人の輪郭を帯び、若者の名を囁くような声を発した。「お前も…見ずにはいられなかったな…」
若者は悲鳴を上げ、提灯を落とした。明かりが消え、闇が彼を飲み込んだ。翌朝、村人たちが社を訪れると、若者の姿はどこにもなかった。提灯だけが、拝殿の前に転がっていた。だが、その提灯には奇妙な模様が刻まれていた。まるで、人の顔が苦悶に歪んだような模様だった。
それから数日後、村に異変が起きた。夜になると、霧が一層濃くなり、村人たちの家々に奇妙な影が映るようになった。影は窓の外に立ち、じっと家の中を覗き込んでいた。子供たちは「誰かが呼んでいる」と言い出し、夜中に家を抜け出す者が現れた。だが、彼らは二度と戻らなかった。
村の長老たちは、若者が社の禁を破ったことで、霧の主の怒りを買ったのだと確信した。彼らは村人たちを集め、社の周りに注連縄を張り、祈祷を行った。だが、祈祷の最中、突如として風が吹き荒れ、注連縄が引きちぎられた。霧の中から、無数の手が伸びてくるように見えた。村人たちは恐怖に叫びながら逃げ惑ったが、霧は彼らを追い詰めた。
翌朝、村は静まり返っていた。まるで誰もいなかったかのように。近くの町から様子を見に来た者たちが村を訪れたが、家々は空っぽで、まるで時間が止まったかのようだった。唯一、社だけがそのまま残っていた。だが、社の拝殿には、新たな供物が置かれていた。村人たちのものと思われる、血に染まった着物だった。
それ以来、霧の村の噂はさらに恐ろしいものとなった。旅人たちはその谷間を避け、夜には決して近づかない。だが、時折、霧の深い夜に、谷間から誰かの泣き声や笑い声が聞こえるという。村は消えたが、霧の主は今もそこに棲み、迷い込んだ者を待ち続けている。
そして、今でも、鳥取の山奥を旅する者は、霧が濃い夜には決して道を外れない。なぜなら、霧の中には、名を呼ぶ声が潜んでいるからだ。その声に応えた者は、二度と帰ってこない。