群馬の山間部、深い森に囲まれた小さな集落。30年ほど前、1990年代初頭の夏、俺は大学の民俗学研究のためにその地を訪れた。集落は古びた木造家屋が点在し、昼間でも薄暗い空気が漂っていた。地元の人々は親しげだが、どこかよそ者を警戒する目つきが気になった。
俺の目的は、集落に伝わる「霧の谷の伝説」を調べることだった。古老の話では、谷の奥には古い祠があり、そこに棲む「何か」が村を見守っているという。だが、誰もその祠に近づこうとはせず、霧が濃くなる夜には決して谷に入るなと口を揃えた。興味をそそられた俺は、好奇心からその祠を探すことにした。
最初の数日は、集落の外れで古老たちに話を聞き、資料をまとめる日々だった。だが、夜になると異様な雰囲気が集落を包んだ。遠くの森から、低い唸り声のような音が聞こえてくるのだ。最初は風の音かと思ったが、音は毎晩決まった時間に響き、まるで何かが這うような不気味なリズムを刻んでいた。
ある夜、俺は我慢できずに懐中電灯を手に森の奥へ向かった。谷への道は狭く、木々の枝が絡み合うように覆いかぶさり、足元は湿った土と苔で滑りやすかった。霧が立ち込め、視界は数メートル先までしかなかった。懐中電灯の光が霧に飲み込まれ、まるで世界が閉ざされたような感覚に襲われた。
どれだけ歩いただろうか。突然、目の前に朽ちかけた石の祠が現れた。苔むしたその祠は、まるで何百年も放置されたかのように古びていた。だが、奇妙なことに、祠の周りだけ霧が薄く、まるでそこだけが別の空間のように感じられた。祠の前に立つと、背筋に冷たいものが走った。空気が重く、まるで何かに見られているような感覚だ。
祠の扉は半開きで、中に何かが祀られているのが見えた。石像のようだったが、暗くてよくわからない。近づこうとした瞬間、背後からガサッと音がした。振り返ると、霧の中に人影のようなものが立っていた。いや、人影ではない。背が高く、異様に長い腕が地面に届きそうな、歪んだシルエットだった。懐中電灯を向けると、その影は一瞬で霧に溶けるように消えた。
心臓がバクバクと鳴り、足がすくんだ。だが、好奇心が恐怖を上回り、俺は祠の中を覗いた。そこには、獣とも人ともつかぬ異形の石像があった。顔は潰れたように平たく、目は大きく空洞で、口元には鋭い牙が並んでいた。石像の足元には、赤黒い染みが広がっていた。血のようだったが、古すぎて本物かどうかはわからなかった。
その夜、集落に戻ると、宿の老婆が俺の顔を見るなり青ざめた。「谷に行ったな」と一言。彼女の目は恐怖と怒りに満ちていた。俺が何も言えないまま、彼女は続けた。「あそこには昔、村の者が生贄を捧げていた。飢饉や疫病を鎮めるためだ。だが、ある年、生贄をやめたら、そいつが怒って村に現れるようになった。霧の夜に、長い腕で人を攫っていくんだ」
その話を聞いて、俺はあの影を思い出した。老婆はさらに続けた。「お前が祠を覗いたなら、もう目をつけられた。夜は絶対に外に出るな」
その夜、宿の部屋にいると、窓の外からあの唸り声が聞こえてきた。今度は遠くではなく、すぐ近くからだ。窓の外を見ると、霧の中にあの影が立っていた。長い腕がゆらゆらと揺れ、まるで俺を誘うように動いていた。恐怖で体が震え、息ができなかった。影は窓に近づき、ガラスを爪のようなものでカリカリと引っ掻いた。その音は、まるで骨を削るような不快な響きだった。
朝になるまで、俺は布団をかぶって震えていた。影は夜明けとともに消えたが、宿の老婆は俺にすぐ集落を離れるよう命じた。「お前がここにいると、そいつが村に来る。もう二度と谷に近づくな」と。
俺は急いで荷物をまとめ、集落を後にした。だが、帰りのバスの中で、窓の外を見ると、遠くの森の霧の中に、あの影が立っている気がした。バスが走り出すと、影はゆっくりと手を振るように動かした。その動きは、まるで「また会おう」と言っているようだった。
それから30年近く経つが、俺は二度とあの集落には戻っていない。あの影が今も霧の谷に潜んでいるのか、考えるだけで背筋が凍る。だが、時折、夜中に窓の外でカリカリという音を聞くことがある。風のせいだと自分に言い聞かせるが、あの長い腕が脳裏をよぎるたび、眠れなくなるのだ。