廃寺の哭声

実話風

今から数十年前、愛知県の山間部にひっそりと佇む小さな集落があった。そこは、かつて栄えた古刹が廃墟と化し、苔むした石段と崩れかけた本堂だけが残る場所だった。地元では「哭き寺」と呼ばれ、夜な夜な不気味な泣き声が聞こえるという噂が絶えなかった。

集落に住む少年、健太は、好奇心旺盛な15歳だった。夏休みのある日、友達の陽介と一緒に、肝試しをしようと廃寺に忍び込む計画を立てた。陽介は怖がりだったが、健太の熱意に押され、渋々ついてきた。二人は懐中電灯を手に、夕暮れ時に集落の外れにある細い山道を登り始めた。

山道は鬱蒼とした杉林に覆われ、陽が落ちると一気に暗闇に飲み込まれた。風が木々を揺らし、ガサガサと不気味な音が響く。陽介は「やっぱりやめようよ」と何度も呟いたが、健太は笑いながら「そんなのただの風だろ」と取り合わなかった。やがて、二人は廃寺の門前にたどり着いた。

門は錆びついた鉄格子で半ば壊れ、隙間から冷たい風が吹き抜ける。境内には雑草が生い茂り、本堂の屋根には穴が空いて、月明かりが不気味に差し込んでいた。健太は興奮気味に「ほら、めっちゃ雰囲気あるじゃん!」と言い、陽介を引っ張って本堂の中へ足を踏み入れた。

本堂の中は、埃とカビの匂いが充満していた。床板は腐り、踏むたびにギシギシと音を立てる。祭壇には古びた仏像が置かれ、顔は風化して表情がわからなかった。陽介は「なんかヤバい気がする…」と震え声で呟いたが、健太は懐中電灯で辺りを照らし、「何もねえよ!ビビりすぎ!」と笑い飛ばした。

その時、どこからか低い唸り声のような音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、音は徐々に大きく、まるで誰かが苦しげに呻いているようだった。陽介は「な、なんだよこれ!?」と叫び、健太もさすがに顔が強張った。音は本堂の奥、祭壇の裏から聞こえてくる。二人は恐る恐る近づいた。

祭壇の裏には、隠し扉のような小さな木の扉があった。健太は好奇心を抑えきれず、扉に手をかけた。陽介が「やめろって!」と叫んだが、健太は「ちょっとだけ見るだけだから」と扉をゆっくり開けた。中は真っ暗で、懐中電灯の光が届かないほどの深い闇が広がっていた。と、その時、闇の中から冷たい手が伸び、健太の腕を掴んだ。

「うわっ!」健太は悲鳴を上げ、慌てて手を振りほどいた。陽介は恐怖でその場にへたり込み、泣きそうな声で「逃げよう!」と叫んだ。二人は本堂を飛び出し、転がるように山道を駆け下りた。だが、背後から追いかけてくるような足音が聞こえ、振り返ると、誰もいないはずの闇の中に白い影が揺れているのが見えた。

集落に戻った二人は、健太の家に逃げ込み、祖母に事の次第を話した。祖母は顔を青ざめ、「お前たち、哭き寺に行ったのか」と呟いた。祖母の話によると、数十年前、廃寺には若い僧が住んでいた。彼は修行に励む真面目な男だったが、ある夜、寺にやってきた旅人に襲われ、命を落とした。その後、寺は廃墟となり、僧の霊が夜な夜な哭き声を上げ、訪れる者を呪うようになったという。

「その扉を開けたなら、お前たちはもう見ずにはいられんよ。あの僧の苦しみをな…」祖母の言葉に、健太と陽介は凍りついた。その夜、健太は眠れなかった。目を閉じるたび、闇の中から伸びる冷たい手と、苦しげな哭き声が頭をよぎった。

翌朝、陽介が様子を見に来たが、彼の顔は真っ青だった。「健太、昨夜…何か見た?」と震える声で尋ねた。健太が首を振ると、陽介は「俺、夢で…あの寺の僧に追いかけられた。首を絞められて…」と涙目で話した。健太は笑ってごまかそうとしたが、内心では恐怖が広がっていた。

それから数日、健太は奇妙な体験をするようになった。夜中、部屋の隅で誰かが動く気配がする。振り返っても誰もいない。だが、ある夜、健太ははっきりと見た。部屋の隅に、ぼろぼろの僧衣をまとった男が立っていた。顔は青白く、目は虚ろで、口から血のようなものが滴っていた。男は健太を見つめ、低い声で「なぜ…開けた…」と呟いた。

健太は叫び声を上げ、両親を起こしたが、誰も男の姿を見ていなかった。両親は「夢でも見たんだろ」と取り合わなかったが、健太にはわかっていた。あの扉を開けた瞬間、何かを解き放ってしまったのだ。

陽介もまた、奇妙な体験を繰り返していた。夜道を歩いていると、背後から足音が聞こえる。振り返っても誰もいないが、冷たい息が首筋にかかる。陽介は次第に塞ぎ込み、学校にも来なくなった。健太が陽介の家を訪ねると、陽介の母は憔悴した様子で「陽介が…夜中に叫んで、誰もいないのに誰かと話してるの」と語った。

ある晩、健太は決意した。このままでは自分も陽介も呪われたままかもしれない。祖母に相談すると、彼女は古いお札を渡し、「寺に戻って、扉の前にこれを貼りなさい。そして、心から詫びなさい」と告げた。健太は一人、夜の廃寺に向かった。

月明かりの下、廃寺は前よりも不気味だった。風が泣き声のように聞こえ、木々がざわめく。健太は震える手で本堂に進み、祭壇の裏の扉を見つけた。扉は半開きで、闇の中から冷気が漂ってくる。健太はお札を扉に貼り、目を閉じて詫びの言葉を口にした。「ごめんなさい…開けちゃって…もう二度としません…」

その瞬間、背後からドンッと大きな音がした。振り返ると、仏像が倒れ、床に大きな亀裂が走っていた。健太は恐怖で動けなかったが、どこからか「…去れ」という低い声が聞こえた。健太は一目散に寺を飛び出し、集落まで走り続けた。

翌日、陽介の様子が元に戻った。健太もまた、あの僧の姿を見ることはなくなった。だが、健太の心には深い傷が残った。廃寺には二度と近づかなかったが、夜、風が強く吹くたびに、あの哭き声が聞こえる気がして、背筋が凍るのだった。

今でも、愛知県のその集落では、哭き寺の噂が囁かれている。地元の老人たちは言う。「あの寺には、触れてはいけないものがある。開けてはいけない扉がある」と。

健太は大人になった今でも、あの夜のことを忘れられない。闇の中から伸びた冷たい手、僧の虚ろな目、そして、耳に残る哭き声。あの体験は、健太の心に永遠に刻まれた恐怖だった。

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