それは今から10年ほど前、山梨県のとある市街地での出来事だった。
その夜、私はいつものように地元のコンビニで夜勤のアルバイトをしていた。店は国道沿いにあり、夜中でもトラックやバイクの音が響く、決して静かとは言えない場所だった。時計はすでに深夜2時を回り、客足も途絶えていた。私はレジ裏で棚の整理をしながら、静かな店内に流れるBGMをぼんやりと聞いていた。
そのコンビニは、古びた建物だった。築30年以上とも言われるその店は、床がきしむ音や、冷蔵庫のモーター音が時折響くのが日常だった。だから、最初は気にも留めなかった。だが、その夜、いつもと違う音が聞こえてきた。
カタン……カタン……。
最初は小さく、遠くから聞こえるような音だった。まるで誰かがゆっくりと店内を歩いているような、リズミカルな足音。でも、店内には私以外誰もいない。防犯カメラのモニターをちらっと見ても、映っているのは空っぽの通路と商品棚だけだ。『風かな』と自分を納得させようとしたが、窓は全て閉まっている。店の外は静かで、車の音すら聞こえない。
カタン……カタン……。
音は徐々に大きくなり、まるで近づいてくるようだった。私は作業の手を止め、耳を澄ませた。音の出どころは、店の奥、冷蔵庫が並ぶ飲料コーナーの方から聞こえてくる。『何か落ちたのか?』と思い、懐中電灯を持ってそちらへ向かった。夜勤では照明を一部落としているため、店内は薄暗く、商品の影が壁に長く伸びている。
飲料コーナーに着くと、音はぴたりと止んだ。冷蔵庫のガラス扉には、私の顔がぼんやりと映っている。棚を見回したが、倒れたペットボトルも、落ちた商品もない。『気のせいか……』と呟きながらレジに戻ろうとしたその瞬間、再び音が響いた。
カタン……カタン……。
今度はすぐ近く、背後の冷蔵庫の向こうからだ。私は振り返り、懐中電灯を向けた。光がガラス扉を照らすと、そこには何もなかった。ただ、冷蔵庫の奥、ガラス越しに見える壁の影が、なぜか妙に濃く見えた。まるで、誰かがそこに立っているかのように。
心臓がドクンと跳ねた。私はゆっくりと後ずさりながら、声を絞り出した。「あの……誰かいますか?」 もちろん、返事はない。だが、音は止まなかった。カタン……カタン……。今度は、まるで私の動きに合わせて音が移動しているようだった。右に動けば右から、左に動けば左から。まるで、私を追いかけるように。
恐怖が背筋を這い上がってきた。私はレジに戻り、店の電話を握りしめた。誰かに助けを呼ぼうかと思ったが、こんな時間に誰が来てくれるというのか。それに、こんな曖昧な恐怖をどう説明すればいい? 結局、電話を置いて、防犯カメラのモニターを凝視することしかできなかった。
すると、モニターの端、飲料コーナーの映像に何か映った。ぼんやりとした影のようなもの。人間の形をしているが、輪郭がはっきりしない。まるで煙が人の形を模しているかのようだった。その影は、ゆっくりと通路を移動し始めた。私のいるレジの方へ向かってくる。
「うそだろ……」 声が震えた。私はモニターから目を離せず、ただその影を見つめていた。影は商品棚の間をすり抜け、どんどん近づいてくる。カタン……カタン……。音もまた、連動するように大きくなっていく。心臓の鼓動が耳の中で響き、冷や汗が額を伝った。
影がレジのすぐ近く、雑誌コーナーのあたりまで来たとき、突然、店内の照明が一瞬チカチカと点滅した。BGMも途切れ、店内が一瞬だけ完全な静寂に包まれた。そして、次の瞬間、耳をつんざくような音が響いた。
ガシャン!
雑誌コーナーから、棚ごと倒れるような大きな音がした。私は思わず悲鳴を上げ、カウンターの下に身を隠した。心臓が口から飛び出しそうだった。しばらく蹲ったまま動けなかったが、音が止んだのを確認して、恐る恐る顔を上げた。
雑誌コーナーには、何もなかった。棚は倒れていないし、雑誌も散乱していない。まるで何事もなかったかのように、店内は静まり返っていた。防犯カメラのモニターを見ても、影は消えていた。カタンという音も、もう聞こえない。
それから朝まで、私はレジのカウンターから一歩も動けなかった。朝になって交代のスタッフが来たとき、私は何も言わず、ただ店を出た。家に帰ってからも、あの夜のことを思い出すたびに体が震えた。後日、店のオーナーにそれとなく聞いてみたが、「そんな話、初めてだよ」と笑いものだった。防犯カメラの映像も確認したが、影が映っていたはずの時間帯は、なぜかノイズだらけで何も見えなかった。
それ以来、私は夜勤を辞めた。あのコンビニには二度と足を踏み入れていない。でも、時折、街を歩いていると、どこからかカタン……カタン……という音が聞こえる気がする。振り返っても誰もいない。ただ、背後で何かが見ているような、冷たい視線を感じることがある。
今でも、あの夜のことを考えると、胸の奥が締め付けられる。あの影は何だったのか。あの音はどこから来ていたのか。答えはわからない。ただ一つ確かなのは、あのコンビニには、私以外の『何か』がいたということだ。