明治の初頭、富山の山深い村に、雪蔵という名の若者が住んでいた。村は深い森と険しい山々に囲まれ、冬には雪が積もり、外部との交流が途絶えることも珍しくなかった。雪蔵は猟師の家に生まれ、父から山の道や獣の習性を教わり、幼い頃から山を駆け回っていた。だが、その山には古くから語り継がれる不気味な言い伝えがあった。『霧が濃く立ち込める夜、死者の声が聞こえる』と。
ある秋の夕暮れ、雪蔵は村の長老から奇妙な依頼を受けた。山の奥、禁じられた谷と呼ばれる場所で、行方不明になった村人の行方を探してほしいというのだ。その谷は、かつて村を襲った疫病で死に絶えた者たちが埋められた場所とされ、村人たちは決して近づかない。長老の話では、最近、谷の近くで不思議な光や声を耳にした者がいるとのことだった。雪蔵は気乗りしなかったが、村のためにと引き受けることにした。
翌朝、雪蔵は弓と短刀を手に、谷へと向かった。山道は苔むした岩と倒木で覆われ、足元は不安定だった。空はどんよりと曇り、冷たい風が木々の間を抜けていく。谷に近づくにつれ、空気が重くなり、鳥のさえずりすら聞こえなくなった。雪蔵の胸には、言い知れぬ不安が広がっていた。
谷の入口にたどり着いたとき、霧が立ち込め始めた。白い靄はまるで生き物のように地面を這い、雪蔵の足元を包み込んだ。彼は一瞬、引き返そうかと思ったが、村人のため、そして自分の誇りのために進むことを決意した。谷の奥に進むと、朽ちた石碑が点在し、風化した文字がかろうじて読めた。そこには疫病で死んだ者たちの名が刻まれていた。
突然、背後でかすかな音がした。枯れ葉を踏む音か、あるいは誰かが囁くような声か。雪蔵は振り返ったが、誰もいない。霧がさらに濃くなり、視界は数歩先までしか届かなくなった。「誰だ!」と叫んだが、声は霧に吸い込まれるように消えた。そのとき、はっきりと聞こえた。女の声だった。
「…帰して…」
雪蔵の背筋が凍りついた。声はどこからともなく響き、まるで頭の中に直接語りかけてくるようだった。彼は短刀を握りしめ、辺りを見回したが、霧の中で動く影はなかった。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が額を伝う。それでも、彼は進んだ。村人の行方を確かめなければならなかった。
谷の奥に進むと、地面に奇妙なものを見つけた。古びた着物の切れ端だった。布は泥と何か赤黒いもので汚れており、触れると冷たく湿っていた。雪蔵はそれを拾い上げ、鼻を近づけた瞬間、腐臭が鼻をついた。彼は思わず布を落とし、吐き気を抑えた。そのとき、再び声が聞こえた。今度は複数の声が重なり、まるで合唱のように響いた。
「…ここにいる…助けて…」
声は四方八方から聞こえ、雪蔵は方向を見失った。霧の中、ぼんやりとした人影が見えた気がした。だが、近づくと消え、また別の場所に現れる。雪蔵は叫んだ。「何だ! 出てこい!」しかし、答えはなく、ただ声だけが響き続けた。彼は走り出したが、霧はますます濃くなり、足元が見えない。木の根に躓き、転倒した瞬間、冷たい手が彼の足首を掴んだ。
雪蔵は叫び声を上げ、短刀を振り回したが、何も切りつける感触はなかった。だが、足首に残る冷たい感触は消えなかった。彼は這うようにして立ち上がり、必死に谷の出口を目指した。どれだけ走ったかわからない。やがて、霧が薄れ、谷の入口が見えた。雪蔵は振り返らずに村へと急いだ。
村に戻った雪蔵は、長老にすべてを話した。だが、長老の顔は青ざめ、こう告げた。「その谷には、疫病で死んだ者たちの魂が閉じ込められている。霧の夜に現れ、生者を引きずり込もうとするんだ」と。雪蔵は震えながらも、村人の行方を尋ねた。長老は首を振った。「おそらく、もうこの世にはいない」と。
その夜、雪蔵は高熱にうなされた。夢の中で、霧の中を彷徨う無数の人影を見た。彼らは皆、顔がなく、ただ虚ろな目で雪蔵を見つめていた。女の声が響く。「一緒に…来て…」 雪蔵は叫びながら目を覚ましたが、部屋の中には誰もいなかった。だが、足首には、冷たい手の感触がまだ残っていた。
それからというもの、雪蔵は霧の夜に外に出ることをやめた。村人たちも、谷には二度と近づかなかった。だが、霧が濃く立ち込める夜、村の外れでは今も囁き声が聞こえるという。雪蔵は年老いた今でも、足首に残るあの冷たい感触を忘れることはなかった。そして、村の者たちはこう囁く。『あの谷には、決して近づいてはいけない。さもないと、霧に呑まれて二度と帰ってこられない』と。