闇に響く子守唄

実話風

それは今から20年ほど前、2005年の夏のことだった。

山梨県の山深い集落に、俺は大学の研究のために足を踏み入れた。民俗学を専攻していた俺は、古い信仰や風習を調べるため、県北部の山間部にある小さな村を訪れたのだ。村の名前はここでは伏せるが、地図にもほとんど載らないような場所だった。そこは、携帯の電波も届かず、舗装されていない細い道が山の斜面を縫うように続く、まるで時間が止まったような場所だった。

村に着いたのは夕暮れ時。山の稜線に沈む夕陽が、赤黒い光を谷間に投げかけていた。村の入り口には古びた鳥居が立っていて、苔むした石段が森の奥へと続いていた。俺を迎えてくれたのは、村の古老で、研究の協力者でもある老女だった。彼女は穏やかな笑みを浮かべながらも、どこか遠い目をして俺を家に招き入れた。家は古い木造の建物で、軋む床板と湿った畳の匂いが印象的だった。

その夜、彼女から村の歴史や風習について話を聞いた。だが、話が進むにつれて、彼女の声は次第に低くなり、まるで誰かに聞かれないように話しているかのようだった。特に、村の奥にある「禁足地」と呼ばれる場所について話すとき、彼女の目は明らかに怯えを帯びていた。「あそこには近づかない方がいい」と、彼女は何度も繰り返した。禁足地は、村の背後に広がる深い森の奥にある、誰も立ち入らない場所だという。そこには古い祠があり、村人たちは「何か」を祀っているらしいが、詳しいことは教えてくれなかった。

翌日、好奇心に駆られた俺は、禁足地へと向かうことにした。研究のため、と言い訳しながら、内心では何か面白い発見があるかもしれないと期待していた。村の外れから森に入ると、空気が一変した。鳥の声も虫の音も消え、ただ自分の足音だけが響く。木々の間を縫うように進むと、突然、視界が開けた。そこには小さな祠がぽつんと立っていた。石造りの祠は風化し、表面には苔と蔦が絡みついていた。祠の前には、誰かが供えたらしい白い花が、萎れて地面に散っていた。

そのとき、どこからか子守唄のようなメロディが聞こえてきた。かすかで、しかし耳に残る不思議な旋律。声は女のものだったが、どこか人間離れした響きがあった。歌詞は聞き取れなかったが、まるで森全体がその歌に共鳴しているかのように、木々がざわめいている気がした。俺は背筋に冷たいものが走るのを感じたが、好奇心が恐怖を上回り、祠に近づいた。

祠の周囲には、奇妙なものがいくつか落ちていた。古い人形の破片、錆びた髪飾り、そして何かの骨のようなもの。俺はそれらを手に取ろうとした瞬間、背後でガサッと音がした。振り返ると、誰もいない。だが、明らかに何かがそこにいた気配があった。子守唄はまだ続いていて、だんだん近づいてくるようだった。心臓がバクバクと鳴り、俺は慌ててその場を離れた。森を抜ける間、背中に視線を感じ続けたが、振り返る勇気はなかった。

村に戻ると、老女が玄関で待っていた。彼女の顔は青ざめ、目には怒りと恐怖が混ざっていた。「あんた、行ったね? 禁足地に」と、震える声で言った。俺は正直に頷くと、彼女は深くため息をつき、「もう遅いかもしれない」と呟いた。その夜、彼女は俺に、ある話を聞かせてくれた。

禁足地には、ずっと昔、村に住んでいた若い女が関係しているという。彼女は村の外から来た男と恋に落ち、子を身ごもった。しかし、村の掟では外の者との子は許されず、彼女は村人たちによって森の奥に追いやられた。彼女はそこで子を産み、子守唄を歌いながら子を抱いて死んだという。以来、禁足地には彼女の霊が棲み、近づく者を呪うのだと。村人たちはその霊を鎮めるため、祠を建て、定期的に供物を捧げていた。しかし、最近、供物が途絶え、霊が怒っているという噂が流れていた。

その話を聞いて、俺は自分の軽率さを呪った。だが、恐怖はそれで終わらなかった。その夜、宿の部屋で寝ようとすると、窓の外からあの子守唄が聞こえてきた。かすかだが、確かにあの旋律だった。窓に目をやると、ガラス越しに白い影が揺れているのが見えた。女の姿だった。長い髪が風になびき、顔は見えなかったが、彼女がこちらを見ているのは明らかだった。俺は布団をかぶり、震えながら朝を待った。

翌朝、俺は急いで村を離れる準備をした。だが、老女は最後にこう言った。「彼女は子を失った悲しみで、誰かを連れていこうとする。あんたが無事でいられるよう、祈るよ」。その言葉が頭から離れず、俺は村を後にした。車で山を下りながら、バックミラーに一瞬、白い影が映った気がした。だが、振り返っても何もなかった。

それから数週間、俺は毎夜、子守唄の夢を見た。夢の中で、女が俺に近づき、冷たい手で俺の顔を撫でる。目が覚めると、部屋に白い花びらが落ちていることがあった。あれ以来、俺は山梨のあの村には二度と近づいていない。だが、時折、静かな夜に、あの子守唄が聞こえることがある。遠くから、だが確かに、俺を呼ぶように。

今でも思う。あの祠に近づかなければ、あの歌を聞かなければ、俺はまだ平穏な日々を送れていたのかもしれない。だが、一度踏み入れた闇は、そう簡単には離してくれない。

タイトルとURLをコピーしました