数年前、岐阜県の山深い集落に、友人と共にキャンプに出かけた時のことだ。俺たちは都会の喧騒を離れ、自然の中でリフレッシュしようと、車を走らせた。目指したのは、岐阜の山奥にある、ほとんど人の訪れない小さなキャンプ場。ネットで調べた情報では、近くに廃村があるらしいが、観光地化されておらず、地元民以外にはあまり知られていない場所だった。
そのキャンプ場は、深い森に囲まれ、携帯の電波もほとんど入らない。昼間は清々しい空気と川のせせらぎが心地よく、俺たちはテントを張り、焚き火を囲んでビールを飲んだ。友人の一人、陽気な性格の男が「せっかくここまで来たんだから、夜に廃村探検でもしようぜ」と言い出した。もう一人の友人は乗り気じゃなかったが、俺も好奇心を抑えきれず、結局三人で懐中電灯とカメラを持って出かけることにした。
廃村までの道は、キャンプ場から細い獣道を30分ほど登ったところにあると、事前に調べていた。月明かりが薄く、木々の間を縫うように進む道は、昼間の穏やかな雰囲気とは打って変わって不気味だった。風が枝を揺らし、ガサガサと音がするたびに、俺たちはビクッと肩を震わせた。それでも、陽気な友人が冗談を飛ばしながら進むので、なんとか緊張を紛らわせていた。
やがて、森の奥に廃村が見えてきた。朽ちかけた木造の家々が、月光に照らされて幽霊のように浮かび上がっている。屋根は抜け落ち、窓ガラスは割れ、蔦が壁を這う様子は、まるで時間が止まったかのようだった。村の中心には、ひときわ大きな建物があった。恐らく集会所か何かだろう。俺たちはそこを目指して歩を進めた。
集会所の扉は半開きで、軋む音を立てながら風に揺れていた。中に入ると、埃とカビの匂いが鼻をついた。床には古い畳が敷かれ、壁には色褪せたカレンダーが貼られたまま。カレンダーの年号は、30年以上前を示していた。陽気な友人が「ここ、めっちゃ雰囲気あるな! ホラー映画のセットみたい!」と笑いながら写真を撮り始めた。だが、俺の胸には得体の知れない不安が広がっていた。
その時、どこからか、かすかな歌声が聞こえてきた。女の声だった。低く、ゆったりとしたメロディ。子守唄のようだったが、どこか不協和音が混じるような、不気味な響きがあった。俺たちは顔を見合わせた。「お前、聞こえた?」と友人が囁く。俺は頷き、もう一人の友人は青ざめた顔で「ここ、出ようぜ」と震える声で言った。だが、陽気な友人が「ちょっと待てよ、面白そうじゃん」と言い、歌声のする方へ歩き出した。仕方なく、俺たちも後を追った。
歌声は、集会所の奥、階段の下から聞こえてくるようだった。懐中電灯で照らすと、地下室に続く扉が見えた。錆びた蝶番が不気味な軋み音を立て、半開きの扉の隙間から、冷たい空気が流れ出していた。陽気な友人が「ここだろ」と扉を開けようとした瞬間、歌声がピタリと止んだ。静寂が耳に痛いほどだった。俺の背筋に冷や汗が流れ、友人の一人が「もうやめよう、帰ろう」と懇願した。だが、陽気な友人は「今さら引き返せねえよ」と笑い、扉を力ずくで開けた。
地下室は真っ暗で、懐中電灯の光が届かないほど深かった。階段を下りると、湿った土の匂いが強くなり、どこかで水滴が落ちる音が響いていた。歌声は再び聞こえ始めたが、今度ははっきりと、すぐ近くで。女の声は、まるで耳元で囁くように、子守唄を繰り返していた。「ねんねんころりよ、おころりよ…」その声は優しく、しかしどこか冷たく、俺の心臓を締め付けた。
地下室の奥に、ぼんやりと白い影が見えた。女の姿だった。長い髪が顔を覆い、白い着物をまとったその姿は、まるで浮いているように見えた。陽気な友人が「うわ、なんだあれ!」と叫び、カメラを向けた瞬間、フラッシュが光った。その光に照らされた女の顔は、目がなく、真っ黒な穴が口のように広がっていた。次の瞬間、女の姿が消え、子守唄が甲高い叫び声に変わった。俺たちは悲鳴を上げ、階段を駆け上がった。
集会所を出て、廃村を走って逃げた。背後からは、子守唄が追いかけてくるようだった。森の中を必死に走り、キャンプ場に戻った時には、俺たちは息も絶え絶えだった。テントに飛び込み、夜が明けるまで震えながら過ごした。翌朝、急いで荷物をまとめ、車で山を下りた。誰も一言も喋らず、ただただ早くその場所を離れたかった。
後日、俺はあの廃村について調べてみた。地元の古老によると、その村は数十年前、原因不明の病気で住民が次々と死に、生き残った者は村を捨てて逃げ出したという。だが、村に住んでいた若い女が、子を亡くした悲しみから自ら命を絶ち、その魂が村に留まっているという噂があった。彼女は夜な夜な子守唄を歌い、村に迷い込んだ者を自分の子と見立て、連れ去ろうとするのだと。
あの夜、俺たちが地下室で見た白い影は、彼女だったのか。陽気な友人が撮った写真には、女の姿は映っていなかった。ただ、フラッシュの光に照らされた地下室の壁に、子供の手形のようなものが無数に刻まれていた。それを見た瞬間、俺はあの歌声が耳に蘇り、背筋が凍った。今でも、静かな夜には、あの子守唄が聞こえてくる気がして、眠れなくなることがある。