鬼哭の森

オカルトホラー

それは、今から20年ほど前のこと。栃木県の山深い集落に、友人の実家を訪ねた夏の夜の出来事だった。

私と友人は大学で知り合った。夏休み、彼の実家に遊びに来ないかと誘われた。都会育ちの私にとって、田舎の風景は新鮮で、どこか懐かしい気持ちにさせるものだった。車で細い山道を登り、たどり着いたのは古い木造の家が点在する小さな集落。夕暮れ時、赤く染まる山々が美しかったが、どこか不穏な空気が漂っていた。

「この辺、夜は本当に静かだから。星がすごいよ」と友人は笑顔で言ったが、彼の祖母はどこか浮かない表情だった。夕食の席で、祖母は私にこう忠告した。

「夜、森の方には絶対に行っちゃダメだよ。あそこは鬼哭の森って呼ばれてて、昔から妙なことが起こるんだ」

「妙なこと?」私は興味本位で尋ねたが、祖母はそれ以上何も言わず、ただ「とにかく、行かないで」と繰り返した。その口調には、冗談や迷信を超えた重みがあった。

その夜、友人と私は縁側でビールを飲みながら星空を眺めていた。確かに、都会では見られないほどの星が瞬いていた。だが、どこかで聞こえる奇妙な音が気になった。遠くの森から、風でもない、動物の鳴き声でもない、低く唸るような音が断続的に響いてくるのだ。

「なんだ、あの音?」私は友人に尋ねた。彼は少し顔をこわばらせ、「風だろ、多分」と誤魔化した。だが、彼の目には不安が浮かんでいた。

夜も更け、友人が先に寝てしまった後、私はどうしてもあの音の正体が気になって仕方なかった。懐中電灯を手に、こっそり家を抜け出し、森の入り口に向かった。好奇心が恐怖を上回っていたのだ。

森の入り口は、昼間見たときよりもずっと暗く、木々の間から冷たい風が吹き抜ける。懐中電灯の光を頼りに進むと、木々のざわめきに混じって、あの唸るような音がよりはっきりと聞こえてきた。それは、まるで誰かが遠くで泣き叫んでいるような、しかし人間の声とも異なる不気味な響きだった。

しばらく進むと、森の奥に古い祠のようなものが見えた。苔むした石の祠で、周囲には朽ちかけたお供え物が散乱していた。なぜかその場所に近づくほど、胸の奥に冷たいものが広がっていくような感覚があった。すると、突然、懐中電灯の光がチカチカと点滅し始めた。驚いて立ち止まると、背後でガサッと音がした。

振り返ると、そこには誰もいなかった。だが、明らかに何かが動いた気配があった。心臓がドクドクと鳴り、汗が滲む。「やばい、帰ろう」と思った瞬間、懐中電灯が完全に消えた。闇に包まれた森の中で、唸る音が一層大きく、近くに感じられた。

「誰かいるの?」と声を上げたが、返事はない。代わりに、木々の間からかすかな人影のようなものが動くのが見えた。いや、人影ではない。それは、まるで煙のように揺らめく、黒い輪郭の何かだった。恐怖が全身を支配し、私は無我夢中で来た道を走って戻った。

家にたどり着いたとき、祖母が玄関で待っていた。彼女の目は怒りと恐怖に満ちていた。「言っただろう、森には行くなと!」彼女は私を家の中に引きずり込むと、すぐに戸を閉め、鍵をかけた。

「見たんだね、あれを」と祖母は震える声で言った。「あれは、鬼哭の森に棲むものだ。昔、この村で起きた悲劇の残響だよ」

祖母の話によると、数十年前、村に住む若者たちが森で儀式めいたことを行い、禁忌を犯したのだという。それ以来、森には得体の知れないものが現れるようになり、夜に近づいた者は二度と戻らないか、戻っても正気を失うと言われていた。祖母は、私が無事に帰れたことを奇跡だと言った。

翌朝、友人に昨夜のことを話したが、彼は信じられないという顔で笑った。「お前、怖い話に影響されすぎだろ」と。しかし、彼の祖母は私の話を聞いて黙り込み、ただ「もう二度と近づくな」と繰り返した。

それから数日後、友人の実家を離れる前、森の入り口を遠くから眺めた。昼間の明るい光の下でも、あの森だけはどこか暗く、異様な雰囲気を放っていた。そして、遠くから聞こえるあの唸る音は、私が村を去るまで止むことはなかった。

あれから20年。私はあの夜のことを誰にも話していない。だが、時折、夢の中であの黒い輪郭の何かが見つめてくる。そして、耳元で囁くような唸り声が聞こえるたび、背筋が凍る思いがする。あの森には、何かいる。いや、何かがまだ私を見ているのかもしれない。

今でも、栃木の山奥を通るたび、あの集落のことを思い出す。そして、決して夜の森には近づかないと心に誓うのだ。

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