数年前、岡山県の田舎町に住む私は、夜勤のアルバイトをしていた。
そのコンビニは、県道沿いにぽつんと立つ小さな店で、周囲は田んぼと古い民家ばかり。
夜になると人通りは途絶え、虫の声と遠くの車の音だけが聞こえる。
私は大学生で、夜勤のシフトは楽でいい稼ぎになるからと気軽に始めた。
でも、その夜の出来事が、私の日常を一変させた。
その日は秋の終わり、肌寒い夜だった。
時計は深夜2時を回り、店内には私一人。
レジ裏でスマホをいじりながら、時折棚の整理をするいつものルーティン。
客はほとんど来ない時間帯で、静寂が店を包んでいた。
ふと、外からカツ、カツという音が聞こえてきた。
ヒールの音のような、硬い靴底がアスファルトを叩く音。
「こんな時間に誰だ?」と不思議に思い、ガラス張りの入口を見た。
だが、駐車場には車もなく、人の姿もない。
音は一瞬で消え、私は気のせいかと自分を納得させた。
それから数分後、また同じ音が聞こえた。
カツ、カツ、カツ。
今度ははっきり、店のすぐ近くで響いている。
心臓がドクンと跳ねた。
入口の自動ドアが反応する気配はない。
恐る恐るカウンターから身を乗り出し、ガラス越しに外を覗いた。
街灯の薄暗い光が駐車場を照らすが、誰もいない。
ただ、音は続いていた。
カツ、カツ、カツ。
リズムは一定で、まるで誰かがゆっくり歩いているようだった。
私は息を殺して耳を澄ました。
音は店の周りをぐるりと回っているように感じられた。
正面から右へ、右から裏手へ、裏手から左へ。
そしてまた正面に戻ってくる。
まるで店を囲むように歩いているのだ。
自動ドアのセンサーは無反応なのに、音は確かにそこにある。
私は動けなかった。
ただ立ち尽くし、音を追いかけるしかなかった。
やがて、音がピタリと止んだ。
静寂が戻り、虫の声すら聞こえない。
ホッとしたのも束の間、今度は店内の奥、冷蔵庫の並ぶコーナーから異音がした。
ガサッ、ガサッ。
何か重いものが動くような音。
「ネズミか?」と思ったが、そんな軽い音ではない。
まるで誰かが商品を乱暴に動かしているようだった。
私は意を決して、懐中電灯代わりにスマホのライトを手に奥へ向かった。
冷蔵庫のコーナーに差し掛かると、異様な寒気がした。
冷蔵庫の冷気とは違う、背筋を凍らせるような冷たさ。
棚には何の異常もない。
商品は整然と並び、倒れたり散乱したりしていない。
なのに、ガサッという音がまた響いた。
今度はすぐ近く、隣の通路から。
私はスマホを握りしめ、恐る恐る角を曲がった。
そこには誰もいなかった。
ただ、床に小さな水たまりができていた。
まるで誰かが濡れた足で歩いたような跡。
心臓が喉まで跳ね上がった。
私は後ずさりしながらレジに戻った。
その瞬間、またカツ、カツという足音が外から聞こえてきた。
今度ははっきりと、入口の自動ドアの前で止まった。
だが、ドアは開かない。
私はガラス越しに外を見た。
誰もいない。
なのに、足音はドアのすぐ前で響き続けている。
カツ、カツ、カツ。
まるでそこに立っている誰かが、じっと私を見ているようだった。
私はパニックになり、バックヤードに逃げ込んだ。
鍵をかけ、スマホで上司に電話をかけたが、こんな時間につながるはずもない。
ただ、バックヤードの小さな窓から外を見ると、駐車場の街灯の下に何かが見えた。
人影のようなもの。
ぼんやりと、霧の中に立つように揺れている。
それがゆっくりと店の方に近づいてくる。
カツ、カツ、カツ。
足音がまた聞こえた。
私は息を殺し、窓から目を離せなかった。
どれくらい時間が経ったのか。
人影は店の入口に立つと、ふっと消えた。
同時に足音も止んだ。
私はバックヤードにうずくまり、朝まで動けなかった。
朝方、交代のアルバイトが来たとき、ようやく外に出る勇気が出た。
駐車場には何の痕跡もなかった。
水たまりも、足音の主も、すべて夢だったかのように消えていた。
それから数日後、店の常連であるおじいさんにその話を何気なくした。
すると、彼の顔が曇った。
「その店、昔はもっと小さかったんだよ」と彼は言った。
「その頃、夜道で事故にあった女の人がいてな。よくこの辺をうろついてたって噂があった。ヒールの音が聞こえるってね」
私はぞっとした。
そのおじいさんの話では、彼女は事故で亡くなった後も、この道を彷徨っているという。
「コンビニが建ってからも、夜中に変な音を聞いたって話はよくあったよ」と彼は付け加えた。
私はその後、夜勤を辞めた。
今でもあの足音と、駐車場に揺れていた人影が頭から離れない。
あのコンビニは今も変わらずそこにあるけど、私は二度と夜に近づかないと誓った。
カツ、カツ、カツ。
今でも、静かな夜にその音を思い出すと、背筋が凍る。