深夜の団地に響く足音

実話風

私は滋賀県の市街地に位置する、ごく普通の団地に住む会社員だった。今から数年前、夏の蒸し暑い夜のことだ。私の住む団地は、築30年を超える古い建物で、昼間は子供たちの笑い声や近隣の生活音で賑わっているが、夜になると不気味な静けさに包まれる。特に、夏の夜は窓を開け放つ家が多く、どこからか聞こえてくる微かな音が、妙に気になってしまう。

その夜、私はいつものように仕事から帰宅し、シャワーを浴びてリビングでビールを飲んでいた。時計はすでに23時を回っていた。団地の周囲は静まり返り、遠くで時折、車が通り過ぎる音が聞こえるだけだった。エアコンをつけるほどの暑さではなかったので、窓を開けて涼しい夜風を取り込んでいた。すると、どこからか、かすかな音が聞こえてきた。

「カツン、カツン」

最初は、誰かが階段を上る音かと思った。私の部屋は4階にあり、団地の構造上、階段は共用部分で、夜遅くに誰かが上り下りすることは珍しくなかった。しかし、その音は妙に規則的で、一定のリズムを刻んでいる。まるで、誰かがゆっくり、慎重に歩いているかのようだった。

「カツン、カツン」

音は徐々に近づいてくる。私の部屋のすぐ下、3階の廊下あたりで聞こえているようだった。気になって窓に近づき、そっと外を覗いた。団地の外灯は薄暗く、廊下の様子はほとんど見えない。だが、音は止まることなく続いている。まるで、誰かが私の部屋の真下で立ち止まり、じっとそこにいるかのようだった。

「カツン、カツン」

私は少し不安になり、窓を閉めようかと迷った。しかし、夏の暑さに耐えきれず、結局そのままにしておいた。音はしばらくして途絶え、私はほっと胸を撫で下ろした。きっと、近所の住人が夜遅くに帰宅しただけだろう。そう自分に言い聞かせ、テレビをつけて気を紛らわせようとした。

だが、その夜、事態はさらに奇妙な方向へ進んだ。

深夜1時を過ぎた頃、再びあの音が聞こえてきた。今度は、もっと近く、まるで私の部屋のすぐ外の廊下で響いているようだった。

「カツン、カツン、カツン」

音はゆっくり、だが確実に近づいてくる。私は息を殺し、じっと耳を澄ませた。団地の廊下はコンクリート製で、足音が響きやすい構造だ。だが、この音は、ただの足音とはどこか違う。重く、湿ったような響きがあった。まるで、裸足で濡れた床を歩くような、そんな不気味な音だった。

私は恐る恐る玄関のドアに近づき、ドアスコープから外を覗いた。だが、廊下は真っ暗で、何も見えない。外灯の光が届かないのか、それとも電球が切れているのか、いつもなら見えるはずの廊下の様子が、まるで墨を塗ったように暗闇に沈んでいた。

「カツン、カツン」

音は私のドアのすぐ前で止まった。心臓がドクドクと脈打ち、冷や汗が背中を伝う。私はドアに手をかけ、鍵がきちんと閉まっていることを確認した。だが、その瞬間、ドアノブがガチャガチャと動く音がした。誰かが、ドアを開けようとしている。

「誰!?」

思わず声を上げてしまったが、返事はない。ドアノブの音もピタリと止まり、再び静寂が訪れた。私はドアに耳を当て、息を殺して外の気配を探った。だが、何も聞こえない。まるで、さっきまでの音が幻だったかのように、団地全体が静まり返っていた。

それから数分、私は動けずにいた。恐怖が全身を支配し、頭の中では最悪のシナリオがぐるぐると巡っていた。強盗か? それとも、ただのイタズラか? だが、こんな時間に、こんな不気味な足音を立てて歩く人間がいるだろうか?

意を決して、再度ドアスコープを覗いた。すると、暗闇の中に、ぼんやりとした白い影が見えた。人間の形をしているようだが、輪郭がはっきりしない。まるで、霧の中に浮かぶ人影のようだった。その影は、じっと私のドアの前で立ち尽くしているように見えた。

「カツン、カツン」

再び足音が響き始めた。だが、今度は遠ざかっていく。影はゆっくりと廊下の奥へと移動し、やがて暗闇に溶けるように消えた。私は安堵と恐怖が入り混じった感情で、その場にへたり込んでしまった。

翌朝、近隣の住人にそれとなく昨夜のことを聞いてみた。だが、誰もそんな足音を聞いた者はいなかった。私の部屋の前の廊下には、特に変わった様子もない。ただ、ドアの前に小さな水たまりができていることに気がついた。雨が降った形跡もないのに、なぜかそこだけ濡れていた。

それから数日間、私は夜になるたびに緊張していた。だが、あの足音は二度と聞こえてこなかった。ほっとしたのも束の間、団地の住人の一人から、奇妙な話を耳にした。その人は、昔、この団地で若い女性が自ら命を絶ったという話を教えてくれた。彼女は、夏の夜、団地の廊下をさまよい、濡れた足で歩き回る姿が目撃されていたという。噂では、彼女は恋人に裏切られ、絶望の果てにこの団地で命を落としたらしい。

私はその話を聞いて、背筋が凍る思いがした。あの夜の足音、ドアノブをガチャガチャと動かす音、そしてドア前の水たまり。あれは、本当にただの幻だったのだろうか? それとも、彼女が私に何かを伝えようとしていたのだろうか?

今でも、夏の夜に窓を開けると、あの「カツン、カツン」という足音が聞こえてくる気がして、思わず身震いする。あの団地にはもう住んでいないが、滋賀の市街地を通るたびに、あの夜の恐怖が蘇ってくるのだ。

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