今から数年前、福井県の山深い集落に、友人の結婚式に招かれた俺は、初めてその地を訪れた。
その集落は、福井の山間部にひっそりと佇む、時間が止まったような場所だった。携帯の電波もろくに届かず、集落の入り口には古びた鳥居が立っていて、苔むした参道が森の奥へと続いていた。結婚式は地元の公民館で簡素に行われ、俺は友人の新郎とその親族たちに歓迎された。だが、どこかよそよそしい空気が漂っていた。地元の人々の笑顔には、どこか無理やりな硬さがあったのだ。
結婚式の夜、俺は新郎の親戚が経営する古い民宿に泊まることになった。木造の建物は、軋む床と湿った空気が特徴的で、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。夜更け、寝付けないまま窓の外を見ると、遠くの山にぼんやりと光るものが見えた。最初は星かと思ったが、その光は不規則に揺れ、まるで誰かが提灯を持って歩いているように見えた。気味が悪くなり、布団に潜り込んだが、その夜は妙な夢を見た。暗い森の中で、誰かに追いかけられる夢だ。振り返っても誰もいないのに、背後から冷たい息が首筋にかかる感覚がリアルだった。
翌朝、民宿の女将にその光のことを尋ねると、彼女の顔が一瞬で強張った。「あんた、あの光を見たの?」彼女の声は震えていた。「あれは…見ちゃいけないものだよ。あの山には、昔から誰も近づかない神社がある。あそこにまつわる話は、集落でも口にしない方がいい。」女将の言葉はそれだけで、詳しい話は聞けなかった。だが、彼女の怯えた目つきが、俺の好奇心を刺激した。
その日の午後、結婚式の二次会が終わり、暇を持て余していた俺は、友人の従兄弟である地元の青年にその神社の話を振ってみた。彼は最初、気まずそうに笑って誤魔化した。「そんなの、ただの迷信だよ。古い神社があるだけさ。」だが、俺がしつこく尋ねると、彼は声を潜めてこう言った。「あの神社は、昔、村の厄災を封じるために建てられたものだ。なんでも、数百年前にこの辺りで疫病が流行ったとき、村人を救うために、ある巫女が自分の命を捧げて何かを封じたらしい。それ以来、あの神社は誰も近づかない。行くと、呪われるって噂だ。」
その話にゾクッとしたが、俺はどこかで「そんなバカな」と笑いものだと思っていた。都会育ちの俺にとって、田舎の迷信なんて怖いというより滑稽に思えたのだ。それに、若い頃の俺には、ちょっとした冒険心があった。友人に別れを告げ、帰る前にその神社を一目見てやろうと決めた。
集落の外れから、細い獣道をたどって山に入った。昼間だというのに、森は異様に暗く、木々の間から漏れる光が不気味に揺れていた。30分ほど歩くと、突然、目の前に朽ちかけた鳥居が現れた。鳥居の先には、石段が続き、その奥に古い社が見えた。社は半分崩れ、屋根には苔が生え、まるで何十年も手入れされていないようだった。だが、奇妙なことに、社の周りだけは草一本生えていなかった。まるで何かが見えない力でそこを拒んでいるかのように。
近づくにつれ、空気が重くなり、耳鳴りがし始めた。まるで頭の中で誰かが囁いているような感覚だ。「帰れ…帰れ…」そんな声が聞こえた気がしたが、俺はそれを無視して社に近づいた。社の扉は半開きで、中は真っ暗だった。懐中電灯を手に、恐る恐る中を覗くと、そこには古い鏡が置かれていた。埃だらけの鏡には、何か黒い影が映っているように見えた。だが、よく見ると、それは俺の姿だった。…いや、俺の姿のはずなのに、どこか違和感があった。鏡の中の俺は、笑っているように見えたのだ。
その瞬間、背後でガサッと音がした。振り返ると、誰もいない。だが、明らかに何かが動いた気配があった。心臓がバクバクし、急に寒気がした。慌てて社を飛び出し、来た道を駆け下りた。走りながら、何かが後ろから追いかけてくるような感覚が消えなかった。息を切らしながら集落に戻ると、さっきの青年が心配そうな顔で立っていた。「お前…神社に行っただろ?」彼の声には怒りと恐怖が混じっていた。「言ったはずだ、近づくなって!」
その夜、民宿に戻ると、女将が俺の顔を見るなり青ざめた。「あんた…何か連れてきたね…」彼女はそう呟き、急いで塩を撒き始めた。俺は笑いものだと思ったが、その夜から奇妙なことが続いた。部屋の電気が勝手に点いたり消えたり、夜中に誰かが歩くような足音が聞こえたりした。しまいには、鏡に映る自分の顔が、時折知らない女の顔に変わる気がした。その女は、血の気のない顔で、じっと俺を見つめていた。
翌日、俺は急いで集落を後にした。だが、それからも妙なことが続いた。夜になると、首筋に冷たい息がかかる感覚。鏡を見るたびに、背後に誰かが立っているような錯覚。しまいには、夢の中であの神社に立つ女の姿を見た。彼女は俺に微笑みながら、こう囁いた。「お前もここに残れ…」
今でも、俺はあの集落のことを思い出すと背筋が凍る。あの神社は、ただの迷信なんかじゃなかった。何か、得体の知れないものがそこにいる。そして、俺があの鏡を見た瞬間から、そいつは俺に取り憑いたのかもしれない。今でも、鏡を見るのが怖い。自分の顔が、いつまたあの女の顔に変わるんじゃないかと、いつも怯えている。
集落の名前? そんなもの、怖くて口にできないよ。ただ、福井の山奥には、絶対に行ってはいけない場所がある。それだけは、確実に言える。