旧校舎の深夜の足音

学校怪談

それは、今から10年ほど前のことだった。

熊本県の山深い地域に位置する、歴史ある小さな町の高校での出来事だ。その学校は、戦前から続く古い校舎と、比較的新しい新校舎が併存する場所だった。旧校舎は普段ほとんど使われておらず、倉庫代わりや特別な行事の時だけ開放されていた。しかし、生徒たちの間では、旧校舎に関する不気味な噂が絶えなかった。

特に有名だったのは、「深夜の足音」の話だ。旧校舎の二階、長い廊下の突き当たりにある音楽室から、夜な夜な足音が響くという。しかも、その足音は一人分ではなく、複数の人間が歩いているような、乱雑で不規則なリズムだった。噂では、かつてその音楽室で、戦争中に悲劇的な出来事が起こったとされていた。何があったのか、詳しいことは誰も知らない。ただ、年配の教師たちはその話題になると口を閉ざし、若い教師たちも「ただの作り話だ」と笑いながらも、どこか落ち着かない表情を見せた。

主人公のユウキは、当時高校二年生だった。好奇心旺盛で、怖い話や怪談が大好きだった彼は、友人のタカシとミサキを誘って、夏休み中の学校に忍び込む計画を立てた。目的は、旧校舎の音楽室で噂の足音を確かめること。ユウキは半分冗談、半分本気だったが、タカシは乗り気で、ミサキは少し怖がりながらも「ユウキが一緒なら」と渋々ついてきた。

その夜、月明かりが薄く差し込む中、三人は学校の裏門をよじ登って敷地内に侵入した。夏の夜とはいえ、山間部の空気はひんやりとしていた。懐中電灯を手に、旧校舎の裏口から中へ入ると、埃っぽい空気が鼻をついた。廊下の床は木製で、歩くたびにギシギシと音が鳴る。普段なら気にも留めない音が、この夜は妙に大きく響いた。

「本当にこんなとこで足音なんか聞こえるわけないよな」とタカシが冗談めかして言ったが、声は少し震えていた。ユウキは笑ってごまかしたが、内心では少し緊張していた。ミサキはすでに後悔している様子で、ユウキの袖をぎゅっと握っていた。

旧校舎の二階に上がる階段は、驚くほど急で狭かった。懐中電灯の光が、剥がれかけた壁紙やひび割れた窓ガラスを照らし出す。階段を上りきると、長い廊下が目の前に広がった。突き当たりに、音楽室の重い木製の扉が見える。扉には古びたプレートがかけられ、「音楽室」とだけ書かれていた。

「ここだ…」ユウキが囁くと、ミサキが小さな悲鳴を上げた。「やっぱりやめようよ、なんか嫌な感じする…」彼女の声は震えていたが、ユウキは「せっかくここまで来たんだから」と強がって進んだ。タカシも黙ってついてきたが、彼の顔も心なしか青ざめていた。

音楽室の扉を開けると、中は意外と整然としていた。古いピアノ、埃をかぶった椅子、壁に掛けられた楽譜。それらが懐中電灯の光に浮かび上がる。部屋の中央に立った三人は、しばらく息を殺して耳を澄ませた。静寂。虫の鳴き声すら聞こえない、完全な静けさだった。

「ほら、何もな…」ユウキが言いかけた瞬間、ドンッという鈍い音が廊下の奥から響いた。三人は一斉に振り返ったが、懐中電灯の光は廊下の闇を照らすだけだった。「何!?今の!?」タカシが叫び、ミサキはユウキの腕をさらに強く握った。

ドン、ドン、ドン。音は一定のリズムで近づいてくる。足音だ。だが、それは一人や二人のものではなかった。複数の人間が、バラバラに、しかし確実にこちらに向かって歩いてくるような音だった。ユウキの心臓は早鐘を打ち、ミサキは泣きそうな顔で「帰ろう、帰ろうよ!」と繰り返した。

「落ち着け、ただの…何かだろ、風とか!」ユウキは自分を落ち着かせるように言ったが、声は震えていた。足音はますます近づき、廊下の半ばまで来ているように感じられた。懐中電灯を廊下に向けても、何も見えない。ただ、闇が濃くなるだけだ。

突然、ミサキが叫んだ。「何かいる!そこに!」彼女が指差したのは、廊下の突き当たり、音楽室の扉のすぐ外。懐中電灯を向けると、確かに何かがあった。ぼんやりとした影のようなもの。人の形をしているようで、しかし輪郭が曖昧で、動いているのかすらわからない。ユウキは思わず一歩後ずさり、懐中電灯を落としそうになった。

「見間違いだろ、落ち着け!」タカシが叫んだが、彼の声も恐怖に裏返っていた。その瞬間、足音がピタリと止んだ。静寂が再び訪れ、三人の荒い息遣いだけが部屋に響く。ユウキは勇気を振り絞り、懐中電灯を影のあった場所に向けた。だが、そこには何もなかった。まるで最初から何も存在しなかったかのように。

「…帰ろう」ユウキがつぶやくと、誰も反対せず、三人は一目散に音楽室を飛び出した。階段を駆け下り、裏口から外に出るまで、誰も振り返らなかった。外の空気を吸った瞬間、ミサキは泣き崩れ、タカシは膝をついて息を整えた。ユウキだけが、旧校舎の二階の窓を見上げた。そこには、ぼんやりとした人影が立っているように見えた。だが、目をこすってもう一度見ると、何もなかった。

それから三人は、この出来事を誰にも話さなかった。ユウキは怖い話が好きだったはずなのに、あの夜のことは思い出すだけで背筋が凍る。ミサキはしばらく学校に来られなくなり、タカシは「もう二度とあんなことしない」と誓った。旧校舎は数年後、老朽化を理由に取り壊されたが、解体作業員の間でも「夜中に変な音がした」という噂が立ったという。

今でもユウキは、あの足音が何だったのかわからない。ただ一つ確かなのは、あの夜、音楽室の扉を開けた瞬間、確かに何かを感じたということだ。それは、恐怖を超えた、得体の知れない感覚。まるで、過去の悲劇がまだそこに息づいているかのような、冷たく重い空気だった。

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