数年前、山形県のとある市街地に住む私は、普段と変わらない夜を過ごしていた。時計は深夜0時を回り、街は静寂に包まれていた。私の住むアパートは、古い商店街の裏手にあり、昼間は人通りも多いが、夜になると人影はほとんどなくなる。普段ならそれが心地よい静けさだったが、その夜は何か違った。
仕事が遅くなり、帰宅したのは23時過ぎ。疲れ果てた私は、夕飯もそこそこにシャワーを浴び、ベッドに倒れ込むようにして眠りにつこうとした。だが、窓の外から聞こえる微かな音に、眠気が一瞬で吹き飛んだ。カツ、カツ、カツ。規則的な足音だった。革靴のような硬い音が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。私のアパートは2階で、窓のすぐ下は狭い路地。こんな時間に誰かが歩いているなんて、珍しいことだった。
最初は、ただの通りすがりの人だろうと思った。酔っ払いや、夜遅くまで働く人がたまに通ることもある。でも、その足音は妙に一定で、まるで機械のようだった。速くも遅くもならず、ただカツ、カツ、カツと繰り返される。私はベッドから起き上がり、カーテンの隙間から路地を見下ろした。街灯の薄暗い光が、コンクリートの地面をぼんやりと照らしている。だが、そこには誰もいない。足音はまだ聞こえているのに、人の姿はどこにもなかった。
一瞬、背筋に冷たいものが走った。まさか、と思いながらも、私は窓をそっと開けて耳を澄ませた。足音は確かにそこにあった。だが、路地の奥、街灯の光が届かない暗闇の中で、何かが動いているような気配を感じた。目を凝らしたが、黒い影のようなものは見えるものの、それが人なのか、ただの錯覚なのか判別できなかった。怖くなり、窓を閉め、カーテンを引いた。心臓がドクドクと鳴り、部屋の静けさが逆に不気味に感じられた。
その夜、足音はしばらく続いた。時計を見ると、1時を過ぎていた。音は近づいたり遠ざかったりせず、まるで同じ場所を行ったり来たりしているようだった。私は電気をつけたまま、布団をかぶって目を閉じた。だが、足音は頭の中に響き続け、眠るどころではなかった。やがて、音はピタリと止んだ。あまりの静寂に、逆に恐怖が募った。音が止んだ瞬間、何かが私のアパートのすぐ下に立っているような、強い気配を感じたのだ。
翌朝、恐る恐る窓を開けて路地を見下ろしたが、何も変わった様子はなかった。ただ、路地の地面に、妙に新しい泥の跡が点々と続いていた。私のアパートの真下で、跡は途切れていた。まるでそこに誰かが立っていたかのように。私はゾッとして、すぐにカーテンを閉めた。
それから数日、夜になるとまたあの足音が聞こえるようになった。毎晩、決まった時間に、決まったリズムで。カツ、カツ、カツ。私は怖くて窓を開けられなくなった。友人に相談したが、「ただの気のせいだよ」と笑いものだった。でも、気のせいにしては、あまりにもリアルだった。ある夜、意を決して、懐中電灯を持って路地に出てみた。足音が聞こえる方向へ、ゆっくりと歩を進めた。心臓が喉から飛び出しそうだった。街灯の光が届かない暗闇に近づくと、足音が急に止まった。そして、目の前に、黒い人影が立っていた。
それは、ぼんやりとした輪郭しか持たない、まるで影そのもののような存在だった。顔も、服も、性別もわからない。ただ、そこに「いる」という確かな感覚があった。私は凍りついたように動けなかった。影は私をじっと見つめているようだった。いや、見つめているというより、私の存在を「感じている」ようだった。次の瞬間、影がスッと動いた。私のほうへ、ゆっくりと近づいてくる。足音はしない。なのに、確実に距離が縮まっていく。私は悲鳴を上げそうになりながら、後ずさりしてアパートへ逃げ帰った。
ドアを閉め、鍵をかけ、息を殺して部屋の隅にうずくまった。しばらくして、ドアの外からカツ、カツ、という音が聞こえた。今度は路地ではなく、私のアパートの廊下だ。音は私の部屋の前で止まり、長い沈黙が続いた。私は動けなかった。どれくらい時間が経ったのかわからないが、朝日がカーテンの隙間から差し込むころ、ようやく気配が消えた。
それからしばらく、私は夜に外に出るのをやめた。だが、足音は毎晩聞こえた。次第に、音は私の部屋の近くだけでなく、階段や廊下、他の階からも聞こえるようになった。まるで、影が私の生活に少しずつ侵入してくるようだった。ある日、近所のおばあさんから、奇妙な話を聞いた。「この辺り、昔はもっと賑やかだったけど、妙な噂があったのよ。夜な夜な、誰もいない路地で足音がするって。誰かが消えたって話もあったけど、誰も本気にしなかったわ」
その話を聞いて、私はますます恐怖に駆られた。引っ越しを考えたが、仕事の都合で簡単には動けなかった。仕方なく、私は部屋に塩をまき、お札を買ってきて貼った。すると、不思議なことに、足音は少しずつ聞こえなくなった。だが、完全に消えたわけではない。時折、遠くでカツ、カツ、という音が聞こえることがある。まるで、影がまだどこかで私を見ているかのように。
今でも、あの夜のことは忘れられない。影の正体はわからなかった。幽霊だったのか、ただの幻覚だったのか、それとも何か別のものだったのか。だが、あの気配、あの足音は、確かにそこにあった。私が山形を離れるまで、夜の路地裏は、私にとって恐怖の象徴だった。そして今、別の街で暮らしているが、静かな夜にふと耳を澄ますと、遠くからカツ、カツ、という音が聞こえてくる気がして、思わず背筋が寒くなるのだ。