呪い染まる霧の里

ホラー

明治の頃、鹿児島の山深い里に、霧が濃く立ち込める集落があった。
そこは外界から隔絶され、古いしきたりを守る人々がひっそりと暮らしていた。
集落の名は、口にするのも憚られるほど不気味な響きを持っていた。
里の奥、鬱蒼とした森の端に、朽ちかけた祠が佇んでいた。
その祠には、古来より「触れてはならぬもの」が封じられていると伝えられていた。

里に住む少年、健次は、好奇心旺盛な15歳だった。
彼は、里の大人たちが祠のことを口にしない理由を知りたがっていた。
「近づくな」と厳しく言い聞かされてきたが、ある夏の夜、霧が特に濃く立ち込めた晩、健次は我慢できずに家を抜け出した。
手に持つ提灯の灯りが、霧の中でぼんやりと揺れ、足元の小石がカサリと音を立てるたびに心臓が跳ねた。

祠に近づくにつれ、空気が重く、冷たく感じられた。
まるで何かが彼の動きを見張っているかのようだった。
祠の前には、古い注連縄が張られ、苔むした石碑に判読不能な文字が刻まれていた。
健次は震える手で注連縄に触れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「やめなさい」という低い声が、どこからともなく響いた。
振り返っても誰もいない。
ただ、霧がより濃くなり、彼の提灯の光を飲み込むようだった。

それでも好奇心が恐怖を上回り、健次は祠の戸に手を伸ばした。
軋む音とともに戸が開き、中には黒ずんだ木箱があった。
箱の表面には、奇怪な紋様が彫られ、まるで生きているかのように蠢いているように見えた。
健次が箱に触れた瞬間、鋭い痛みが指先に走り、血が滲んだ。
その血が箱に吸い込まれるように消え、突然、祠全体が震えた。

次の瞬間、健次は気を失った。
目が覚めたとき、彼は自分の家に戻っていた。
だが、何かがおかしかった。
家族の顔が、どこかよそよそしく、目が彼を避けるように感じられた。
「どこに行ってたの?」と母が尋ねたが、その声には温かみがなかった。
健次は祠のことを話そうとしたが、なぜか言葉が出てこなかった。
喉が締め付けられるように詰まり、ただ咳き込むだけだった。

その夜、健次は夢を見た。
霧の中で、黒い影が彼を追いかけてくる。
その影は人間の形をしていたが、顔はなかった。
ただ、口元だけが裂けるように笑い、囁くのだ。
「お前は我を解き放った。今、お前は我の一部だ。」
目が覚めたとき、健次の体は冷や汗でびっしょりだった。
鏡を見ると、彼の瞳が一瞬、黒く染まったように見えた。

翌日から、里に異変が起こり始めた。
家畜が突然死に、井戸の水が赤く濁った。
里の者たちは囁き合った。
「祠の封が解かれたのだ」と。
健次は自分が原因だと確信したが、誰にも言えなかった。
口を開こうとすると、喉に鋭い痛みが走り、血の味がした。

ある夜、健次の親友である清が訪ねてきた。
清は、健次が祠に行ったことを知っていた。
「何をしたんだ? 里が呪われている。みんなお前を疑ってるぞ。」
健次は必死で否定しようとしたが、またしても言葉が出なかった。
清の目には恐怖と疑念が宿り、その夜を最後に彼は健次と口をきかなくなった。

里の異変は止まらなかった。
人々が夜中に奇妙な笑い声を聞いたり、霧の中に人影を見たりするようになった。
健次の家にも異変が及んだ。
母が夜中に突然起き上がり、意味不明な言葉を呟きながら家を徘徊した。
父は日に日に弱り、まるで命が吸い取られているようだった。
健次自身も、夜ごとに同じ夢を見た。
黒い影が彼に近づき、囁く。
「お前が我を解き放った。お前が我を広げる。」

里の長老たちは、ついに祠の異変を確かめるため、集落の男たちを連れて森へ向かった。
だが、祠に着いた彼らが見たのは、崩れ落ちた石碑と、開け放たれた祠の戸だった。
木箱は消え、代わりに地面に黒い染みが広がっていた。
その染みは、まるで生きているかのように脈打っていた。
長老の一人が叫んだ。
「これは呪いだ! 誰かが封を破った!」

その夜、健次は里の広場に引きずり出された。
里人たちの目は憎しみと恐怖に満ちていた。
「なぜ祠に触れた!」と叫ぶ者、「お前が呪いを解いた!」と罵る者。
健次は弁解しようとしたが、喉から血が溢れ、言葉にならなかった。
そのとき、霧の中から黒い影が現れた。
里人たちは悲鳴を上げ、逃げ惑ったが、影は健次に近づき、囁いた。
「お前は我の器だ。里は我のものとなる。」

次の瞬間、健次の意識は途切れた。
目が覚めたとき、彼は森の中にいた。
周囲には誰もおらず、ただ霧が漂っていた。
だが、彼の手にはあの木箱があった。
箱は軽く、まるで中が空っぽのようだった。
しかし、箱を開けようとした瞬間、健次の体が震え、箱が彼の手から離れた。
地面に落ちた箱から、黒い霧が溢れ出し、彼を包み込んだ。

それから、里は完全に霧に閉ざされた。
旅人が近づくと、霧の中で笑い声が響き、誰も戻ってこなかった。
里の名は地図から消え、ただ「呪われた谷」と呼ばれるようになった。
そして、霧の奥で、少年の姿をした何かが、笑いながら彷徨っているという。
その目は黒く染まり、手には古い木箱を抱えている。

今でも、鹿児島の山奥を通る者は、霧が濃い夜には決して足を止めない。
なぜなら、霧の中から囁き声が聞こえるからだ。
「お前も我の一部になれ」と。

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