北海道の奥深い山間部、冬の厳しさが増す2015年の11月。私は大学で民俗学を専攻する学生だった。ゼミの課題で、消滅した集落の伝承を調査するため、道東の山奥にある廃村を訪れることになった。そこは、数十年前に住民が忽然と姿を消したという噂が残る場所だった。
その村は、地図にも載っていないような小さな集落だった。かつては鉱山で栄えていたが、鉱脈が枯れ、住民たちは次々と去っていったらしい。しかし、なぜか最後の数家族が一夜にして消えたという話が、地元で囁かれていた。古老たちは「山の神の怒りだ」とか「何か得体の知れないものが村を呑んだ」と語り、誰も近づこうとしなかった。
私を含めた調査チームは、教授と先輩二人、そして私の四人。雪がちらつく中、ジープで未舗装の山道を進んだ。道は荒れ、木々の間を縫うように続く。やがて、朽ちかけた鳥居と、雪に埋もれた石碑が現れた。そこが村の入り口だった。鳥居の先には、廃屋が点在する寂れた風景が広がっていた。家々は風雪に耐えきれず、屋根が落ち、壁が崩れ、まるで時間が止まったかのようだった。
「ここ、なんか変な感じしない?」
先輩の一人が呟いた。確かに、空気が重い。息を吸うたびに、肺に冷たい鉛が流れ込むような感覚があった。でも、調査のために来たのだからと、気を取り直して村の中心へ向かった。そこには古い神社が残っていた。屋根は半分崩れ、拝殿の扉は外れかけていたが、なぜかその周囲だけ雪が積もっていなかった。不思議に思いながら、教授が神社の記録を撮影し始めた。
その夜、村外れの廃屋を仮の宿泊地とし、テントを張って寝袋に潜り込んだ。外は氷点下で、風が廃屋の隙間を通り抜けるたびに、低い唸り声のような音が響いた。私はなかなか寝付けず、スマートフォンで録音した村の音を聞き返していた。すると、風の音に混じって、かすかな囁き声のようなものが聞こえた。言葉は不明瞭だったが、確かに人間の声のようだった。ぞっとした私は、先輩にその音を聞かせた。
「これ、風の音だろ? 気にしすぎだよ」
先輩は笑って取り合わなかったが、教授は眉をひそめ、「この村には何かがあるかもしれない」と呟いた。その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
翌朝、奇妙なことが起こった。テントの外に、足跡が無数に残されていたのだ。人間のものとも、動物のものともつかない、異様に細長く、爪のような痕が残る足跡だった。雪の上にくっきりと刻まれ、テントの周りをぐるりと囲んでいた。教授は「野生動物だろう」と冷静を装ったが、声にはわずかな震えがあった。
調査を続けていると、神社の裏手にある古井戸を見つけた。井戸の縁は苔むし、底は暗闇に沈んでいた。覗き込むと、冷気が這い上がってくるような感覚があった。先輩の一人が「何か見える!」と叫び、慌てて後ずさった。彼の顔は真っ青で、「目が…目がこっちを見てる」と震えながら呟いた。私も覗いたが、暗くて何も見えなかった。ただ、底からかすかな水音と、まるで誰かが息を吐くような音が聞こえた気がした。
その夜、異変はさらに顕著になった。テントの中で、誰かが外を歩き回る音がした。足音は不規則で、時折ピタリと止まり、まるでこちらを覗き込むように沈黙する。教授は懐中電灯を手に外を確認したが、誰もいなかった。ただ、足跡がまた増えていた。今度はテントのすぐ近くまで迫っており、まるで何かが私たちを観察しているようだった。
「もう帰ろう。この村、なんかおかしい」
先輩の一人が怯えた声で言った。だが、教授は「もう少し調べたい」と頑なだった。私は内心、早くここを離れたかったが、教授の熱意に押され、調査を続けることにした。
三日目の夜、ついに事態は急変した。テントの中で、突然、けたたましい金属音が響いた。まるで誰かが廃屋の鉄板を叩いているようだった。飛び起きた私たちは、懐中電灯を手に外へ飛び出した。すると、神社の方向から、異様な光が漏れているのが見えた。青白く、まるで蛍光灯のような光だったが、揺らめき方が不自然だった。教授は「行ってみるぞ」と言い、私たちは恐る恐る神社へ向かった。
神社の拝殿に近づくと、光はさらに強くなり、まるで生き物のように脈動していた。扉の隙間から漏れる光の中に、影が動いているのが見えた。人間の形ではなかった。細長く、関節が不自然に曲がったシルエット。影はゆっくりと動いていたが、突然、こちらを向いた。次の瞬間、扉がバン!と開き、冷たい風が吹き込んできた。
「逃げろ!」
教授の叫び声で我に返った私は、必死で走った。背後で、地面を這うような音が追いかけてくる。振り返る勇気はなかった。ジープにたどり着き、エンジンをかけた瞬間、窓の外にその「もの」が映った。人間の顔に似ているが、目が異様に大きく、口が裂けたように広がっていた。皮膚は青白く、まるで凍りついた死体のような質感だった。叫び声を上げながらアクセルを踏み、ジープは雪道を滑るように走り出した。
村を抜け、ようやく舗装された道路に出たとき、誰もが無言だった。後部座席で先輩の一人が泣きじゃくり、教授は青ざめた顔で前方を睨んでいた。私は震える手でハンドルを握りながら、バックミラーを見ないように必死だった。なぜなら、ミラーに映るものが、ただの闇ではない気がしたからだ。
それから数週間後、調査のデータを見直していた私は、録音ファイルに異変を見つけた。井戸の近くで録った音声に、囁き声がはっきりと記録されていた。「…来るな…ここは…我々の…」という言葉が、途切れ途切れに聞こえた。教授に相談しようとしたが、彼はあの調査以降、体調を崩し、大学にも顔を出さなくなっていた。先輩の一人は退学し、もう一人は「二度とあの話はするな」と私に釘を刺した。
今でも、あの村のことを思い出すと、背筋が凍る。廃村は今もそこにあり、雪に埋もれているだろう。だが、あの光、あの影、そしてあの声は、決して忘れられない。あの村には、何か人間の理解を超えたものが潜んでいる。私は二度とあの場所には近づかないと誓った。だが、時折、夢の中であの青白い光と、這うような足音が甦るのだ。