数年前の夏、香川県の田舎町に住む私は、仕事のストレスから解放されたくて、よく深夜に車を走らせていた。香川の夜は静かで、街灯もまばら。田んぼや古い家々が続く道を、ただひたすら走るのが好きだった。ある夜、いつものように車を走らせていると、急に小腹が空いてきた。時計はすでに深夜1時を回っていたが、香川には遅くまで営業しているうどん屋がいくつかある。ふと思い出したのが、県道沿いにある古びたうどん屋だった。
その店は、地元でもちょっとした噂の的だった。古い木造の建物で、昼間は普通に営業しているが、夜になると「何かいる」とか「変な音がする」なんて話がちらほらあった。私はそういう話はあまり信じないタイプだったし、腹が減っていたこともあって、迷わず車を店の駐車場に停めた。
店に入ると、カウンターの向こうで店主らしき老人が一人、黙々と麺を茹でていた。客は私以外に誰もいなかった。店内は薄暗く、蛍光灯がチカチカと点滅している。壁には古いカレンダーや色褪せたポスターが貼られ、どこか時代に取り残されたような雰囲気だった。「いらっしゃい」と老人は低い声で言ったが、目線は私に向けず、ただ鍋を見つめていた。
私はカウンターに座り、シンプルなかけうどんを注文した。店内は静かで、麺を茹でる湯気の音と、遠くで鳴る虫の声だけが聞こえていた。うどんを待つ間、何気なく店内を見回していると、カウンターの端に古い写真が飾られているのに気づいた。白黒の写真で、若い男女が笑顔で写っていた。背景にはこの店らしき建物が見える。写真の隅には「昭和45年」と書かれていた。
「その写真、誰なんですか?」
私は何気なく老人に尋ねた。すると、老人の手がピタリと止まった。しばらく沈黙が続き、老人はようやく口を開いた。
「昔、この店で働いてた子たちだよ。もうずいぶん前の話だ」
その声にはどこか重いものが込められているように感じたが、私は深く考えず、軽く頷いた。
うどんが運ばれてきた。熱々の湯気と出汁の香りが食欲をそそる。私は箸を持ち、麺をすする。確かに美味かった。香川のうどんはどこで食べてもハズレがない、なんて思いながら食べていると、突然、店の奥から「コツ、コツ」という音が聞こえてきた。まるで誰かが木の床を歩くような、規則的な足音だった。
私は箸を止めて耳を澄ませた。老人もその音に気づいたようで、鍋から顔を上げ、店の奥をじっと見つめていた。音は一瞬止まり、また「コツ、コツ」と再開した。まるで誰かがゆっくりとこちらに近づいてくるようだった。私は少し緊張しながら老人に尋ねた。
「なんですか、あの音?」
老人はしばらく黙っていたが、やがて低い声で答えた。
「気にしないでくれ。古い建物だから、よく鳴るんだ」
その説明に私は納得しようとしたが、なぜか背筋に冷たいものが走った。
うどんを食べ終え、会計を済ませようと財布を取り出していると、またあの足音が聞こえてきた。今度はさっきよりも近く、はっきりと。「コツ、コツ、コツ」。まるで店のカウンターのすぐ裏、厨房の奥から聞こえてくるようだった。私は思わず振り返ったが、そこには何もなかった。ただ、老人の顔がさっきよりも硬く、どこか怯えたような表情になっているのが目に入った。
「本当に大丈夫なんですか?」
私は半ば冗談めかして聞いたが、老人は答えず、ただ「早く帰りな」とだけ言った。その声には、どこか急かすような、切羽詰まった響きがあった。私は少しムッとしたが、なんとなく嫌な予感がして、急いで店を出た。
車に乗り込み、エンジンをかけようとしたとき、ふと店の窓を見た。すると、窓の奥、カウンターのあたりに、ぼんやりと人影のようなものが立っているのが見えた。老人ではない。もっと小さくて、細い影。まるで女の人のようなシルエットだった。私は一瞬、目を疑った。店には私と老人しかいなかったはずだ。急いで目を凝らしたが、影はすぐに消え、窓にはただ暗闇が映るだけだった。
心臓がドキドキしながら車を走らせ、家に帰った。あの影は何だったのか、足音は何だったのか。考えれば考えるほど、気持ちが悪くなった。翌日、職場の同僚にその話をすると、彼は少し顔を曇らせてこう言った。
「あの店、昔、若い女の人が亡くなったって噂があるよ。事故か何かで、厨房で…」
詳細は誰も知らないらしいが、その話を聞いて、私は二度とあの店には行かないと決めた。
それからしばらくして、別の同僚から聞いた話によると、あのうどん屋は夜中の営業をやめたらしい。理由はわからないが、店主が「もう夜は開けられない」と漏らしていたという。今でもあの足音と、窓に映った影が頭から離れない。香川の田舎町の、静かな夜に響く、あの「コツ、コツ」という音は、私の日常に小さな恐怖を刻み込んだ。