それは、蒸し暑い夏の夜だった。
山口県の山間部に位置する小さな集落。そこに住む俺は、都会の喧騒を離れ、祖父母の古い家を借りて暮らしていた。古びた木造の家は、昼間は静かで穏やかだったが、夜になると妙な気配が漂う。特に、裏山の森から聞こえる風の音は、まるで誰かが囁いているようで、背筋がぞくりとする瞬間があった。
その夜、俺はいつものようにパソコンに向かい、仕事を片付けていた。時計はすでに深夜の2時を回っていた。外は濃い霧が立ち込め、窓の外は真っ白で何も見えない。エアコンの効いた部屋にいると、時折、窓ガラスに何か小さなものが当たる音がした。最初は虫か木の枝が風で揺れているのだと思っていたが、その音は次第に規則的になり、まるで誰かが軽くガラスを叩いているようだった。
「トン、トン、トン……」
音に気を取られ、俺は仕事の手を止めた。静寂の中で、その音だけがやけに大きく響く。不気味さに耐えきれず、窓に近づき、カーテンをそっと開けて外を覗いた。霧の向こうに、ぼんやりとした赤い光が二つ、揺れているのが見えた。まるで人の目のような、鋭く光る赤い点。心臓がドクンと跳ね、思わずカーテンを閉めた。
「なんだ、あれ……?」
ただの動物だ、きっとそうだと自分を落ち着かせようとしたが、身体は震えていた。集落の古老たちから、裏山には「何か」が住んでいるという話を聞いたことがあった。子供の頃、祖父が「夜の森には絶対に入るな」と厳しく言っていたのを思い出す。あの赤い目は、ただの獣の目じゃない。そんな確信が、俺の心を締め付けた。
翌日、気になって近所のおじいさんにその話をしてみた。すると、彼の顔が一瞬曇り、こう言った。
「ああ、あれはきっと『アカメ』だ。昔からこの辺りの山に棲む妖怪さ。夜霧の晩に現れて、人の心を覗き込む。見つめられると、魂を吸われるって話だよ」
おじいさんの声は低く、どこか怯えているようだった。冗談だろ、と笑い飛ばそうとしたが、彼の真剣な目を見ると言葉が喉に詰まった。俺はただ頷き、その場を後にした。
それから数日、霧の夜が続くたびに、俺はあの赤い目を思い出した。仕事中も、ふとした瞬間に窓の外が気になって仕方ない。夜になると、まるで何かに見られているような感覚が強くなり、眠るのも怖くなった。ある晩、とうとう我慢できず、懐中電灯とナイフを手に、裏山の森へ向かった。真相を確かめたかった。いや、確かめなければ、この恐怖に押しつぶされそうだった。
森の中は、霧がさらに濃く、懐中電灯の光も数メートル先までしか届かない。木々の間を抜ける風が、まるで人の息遣いのように聞こえる。足元では枯れ葉がカサカサと音を立て、心臓の鼓動が耳に響く。しばらく進むと、急に空気が重くなった。まるで、誰かがすぐ近くにいるような感覚。振り返っても、誰もいない。ただ、霧の奥に、またあの赤い目が光っている。
「誰だ! 出てこい!」
叫んだ瞬間、赤い目がスッと近づいてきた。懐中電灯を向けるが、光は霧に飲み込まれ、相手の姿は見えない。だが、確かにそこに「何か」がいる。低い、うめくような声が聞こえた。人間の声とも、獣の声ともつかない、ぞっとするような音。俺はナイフを握りしめ、後ずさった。すると、霧の中から、ぼんやりと人影のようなものが浮かび上がってきた。
それは、人の形をしていたが、どこか歪んでいた。背は異様に低く、両腕が不自然に長く垂れ下がっている。顔は霧に隠れてよく見えないが、赤い目だけが異様にくっきりと光っている。そいつが一歩近づくたびに、地面がわずかに震え、俺の心臓は締め付けられるように痛んだ。
「見ズナ……見ズナ……」
そいつが発した言葉は、まるで俺の心の奥底に直接響いてくるようだった。頭の中で、知らない記憶がフラッシュバックする。子供の頃、森で迷ったこと。祖父に叱られたこと。そして、夜の森で何かを見たこと。あの時も、こんな赤い目を見た気がする。いや、思い出したくなかった。あれは、俺が封じ込めた記憶だった。
恐怖がピークに達し、俺は叫びながらナイフを振り上げた。だが、刃は空を切り、そいつは霧の中に消えた。次の瞬間、背後から冷たい手が俺の肩をつかんだ。振り返ると、そこには誰もいない。なのに、肩に残る冷たい感触と、耳元で囁くような笑い声が消えない。
「ハハ……また会オウ……」
気がつくと、俺は森の入り口に立っていた。懐中電灯は電池切れで光らず、ナイフはどこかに落としていた。どれくらい時間が経ったのかわからない。全身が汗でびっしょりで、膝がガクガク震えていた。家に帰り着いたのは、夜が明ける直前だった。
それ以来、霧の夜はカーテンを閉め、窓に塩を盛るようになった。だが、時折、窓の外から「トン、トン、トン」と音が聞こえる。振り返る勇気はない。なぜなら、俺は知っている。あの赤い目が、すぐそこにいることを。
集落の古老たちは言う。「アカメは、忘れられた記憶を喰らう妖怪だ。見つめられると、過去の恐怖が蘇り、心を蝕まれる」と。俺は今、自分の過去と向き合うのが怖い。あの夜、森で見たものは、本当に妖怪だったのか。それとも、俺自身の心が作り出した幻だったのか。
今夜も霧が深い。窓の外で、風が囁いている。いや、あれは風じゃないかもしれない。俺は目を閉じ、耳を塞ぐ。だが、心の奥底で、あの声が響く。
「見ズナ……見ズナ……」