静岡県の山深い地域に、朽ちかけた古い寺がある。地元では「廃寺」と呼ばれ、誰も近づかない場所だった。寺の歴史は古く、江戸時代まで遡るが、ある事件をきっかけに僧侶たちが去り、以来、荒れ果てたまま放置されているという。10年ほど前、2015年の夏、私と友人たちは、肝試しと称してその廃寺を訪れた。あの夜の出来事は、今でも私の心に冷たい影を落としている。
私たちは大学時代の仲間で、夏休みに地元へ帰省していた。メンバーは私を含めて4人。好奇心旺盛なリーダーの男、いつも冷静な理系男子、霊感があると自称する女子、そして私だ。廃寺の噂は地元で有名だった。夜になると寺の境内から鈴の音が聞こえる、暗闇に白い影が揺れる、訪れた者は必ず何かを持ち帰ってしまう――そんな不気味な話が囁かれていた。私たちは半信半疑だったが、退屈な夏の夜を刺激的に過ごしたい一心で、懐中電灯とカメラを手に廃寺へ向かった。
寺までの道は険しかった。舗装されていない山道を登り、鬱蒼とした木々に囲まれた細い獣道を進む。夜の森は静かで、虫の声すら途切れがちだった。リーダーが「ここ、めっちゃ雰囲気あるな!」と冗談を飛ばしたが、誰も笑わなかった。やがて、木々の隙間から廃寺のシルエットが見えた。崩れかけた門、苔むした石段、屋根に穴が開いた本堂。月明かりに照らされたその姿は、まるで時間が止まったかのように不気味だった。
境内に入ると、空気が一変した。夏の夜なのに、肌寒く、どこか湿った匂いが漂っていた。理系男子が「ただの古い建物だろ」と強がったが、彼の声は少し震えていた。私たちは本堂の入り口に立ち、懐中電灯で中を照らした。床は腐り、仏像は埃にまみれ、壁には何かの爪痕のような傷が無数に刻まれていた。霊感女子が「ここ、なんかヤバいよ……」と囁き、皆の緊張が高まった。
その時、かすかに「チリン」と鈴の音が聞こえた。最初は風のせいかと思ったが、風は吹いていなかった。音は本堂の奥、暗闇の彼方から響いてくる。リーダーが「誰かいるのか?」と叫んだが、返事はない。代わりに、鈴の音が「チリン、チリン」と連続して鳴り始めた。音は徐々に近づいてくるようだった。私たちは凍りついたように動けなかった。霊感女子が「やばい、やばい!」と泣きそうな声で繰り返し、私の背筋に冷たいものが走った。
理系男子が「落ち着け、ただの動物だろ」と懐中電灯を奥に照らした瞬間、ライトが一瞬だけ何かを捉えた。白い布のようなものが、ふわりと揺れたのだ。人間の形をしていたが、顔は見えなかった。「何!? 何!?」リーダーが叫び、私たちは一斉に本堂の外へ飛び出した。だが、鈴の音は追いかけてくる。「チリン、チリン、チリン」。まるで私たちを嘲笑うように、音は境内をこだました。
門まで走り抜け、振り返ると、寺の屋根の上に白い影が立っていた。月の光に照らされ、長い髪が風もないのに揺れている。顔は影に隠れて見えなかったが、こちらをじっと見つめている気がした。その瞬間、霊感女子が悲鳴を上げ、気を失った。私たちは彼女を担ぎ、必死に山道を下った。鈴の音は麓に近づくにつれて遠ざかり、ようやく聞こえなくなった。
翌日、霊感女子は高熱を出して寝込んだ。彼女は「あの影がまだ見える」とうわ言のように呟き続けた。私たちはあの夜のことを口にしないと決め、互いに連絡を絶った。だが、それで終わりではなかった。私はそれ以来、夜中に鈴の音を聞くようになった。最初は夢だと思っていたが、音は毎晩、決まった時間に聞こえる。「チリン、チリン」。カーテンの向こうや、部屋の隅から。恐る恐る外を見ても、誰もいない。なのに、音は止まない。
ある夜、とうとう我慢できず、音のする方へ懐中電灯を向けた。すると、部屋の隅に白い影が立っていた。顔はない。長い髪だけが揺れている。私は叫び声を上げ、電気をつけたが、影は消えていた。だが、床には小さな鈴が転がっていた。どこかで見た覚えのある、錆びた古い鈴。あの廃寺の本堂に落ちていたものと同じだった。
それから私は引っ越しを繰り返した。だが、鈴の音はどこへ行っても追いかけてくる。新しい家に引っ越すたび、荷物の中からあの鈴が出てくる。捨てても、燃やしても、翌日にはまたそこにある。地元の古老に相談したところ、廃寺にはかつて、怨霊を封じるための儀式が行われていたという。だが、儀式は失敗し、怨霊は寺に縛られたまま、訪れる者を呪うようになった。鈴はその怨霊の依り代だという。「お前が持って帰ってしまったんだな」と、古老は暗い目で私を見た。
今でも、夜が深まると鈴の音が聞こえる。「チリン、チリン」。私はもう慣れてしまったのかもしれない。だが、時折、鏡に映る自分の背後に、白い影がちらつくことがある。顔のない、長い髪の影。彼女はまだ私を見ている。きっと、ずっと見続けるのだろう。あの廃寺を訪れたことを、私は一生後悔する。
あなたは、夜中に鈴の音を聞いたことはないだろうか。もし聞こえたら、決して音のする方を見てはいけない。見てしまったら、あなたも彼女の呪いから逃れられないかもしれない。

