明治の頃、福井の山深い谷間に、旅人を迎える小さな宿があった。宿は古びた木造の二階建てで、屋根瓦は苔に覆われ、軒下には蜘蛛の巣が揺れていた。村人たちはその宿を「朽ち宿」と呼び、近づくことを避けた。なぜなら、宿に泊まった者は二度と帰ってこないという噂が、谷間に根を張っていたからだ。
ある秋の夕暮れ、若者が一人、宿の戸を叩いた。名を尋ねられても、彼はただ「旅人だ」と答えた。背囊を背負い、埃にまみれた着物をまとったその男は、疲れ果てた様子で宿の主に一夜の宿を求めた。宿の主は、瘦せこけた老婆だった。彼女は無言で男を奥の部屋に案内し、薄暗い行灯の灯りだけが揺れる中、粗末な飯を差し出した。男は飯を口に運びながら、宿の静けさに違和感を覚えた。虫の音も、風の音も、何一つ聞こえない。まるで世界から切り離されたかのような静寂だった。
夜が更けるにつれ、男は奇妙な感覚に襲われた。部屋の隅で何かが動く。目を凝らすと、暗闇に白い影が揺れている。女の姿だった。だが、その顔は宿の老婆とはまるで別人だった。目がなく、口だけが裂けたように広がり、髪は濡れたように床に垂れていた。男は恐怖に凍りつき、声を上げようとしたが、喉が締め付けられるように動かない。影はゆっくりと近づき、男の耳元で囁いた。「ここに居てはいけない」と。
翌朝、男は宿の外に倒れていた。村人に発見された彼は、髪が一夜にして真っ白になり、目は虚ろだった。村人たちが宿に駆けつけると、老婆も宿そのものも消えていた。そこにはただ、朽ちた礎石と、風に揺れる雑草だけが残されていた。男は事の顛末を語ることはなかったが、村人たちはその宿が、かつて疫病で全滅した村の亡魂が彷徨う場所だと囁き合った。
それから数年後、別の旅人が同じ谷間を通った。彼は宿の噂を聞き、好奇心からその場所を訪れた。礎石の周りには、不思議なことに新しい草一本生えていなかった。夜が訪れると、男は石の間から聞こえる声を耳にした。女の哭き声だった。それは低く、怨めしく、まるで地底から這い上がってくるようだった。男は慌ててその場を離れたが、背後で何かが追いかけてくる気配を感じた。振り返ると、誰もいない。だが、風のない夜に、木々の葉がざわめき、遠くで哭き声が響いていた。
村の古老は言う。朽ち宿は、疫病で死にきれなかった者たちの怨念が宿った場所だと。宿に足を踏み入れた者は、必ず何かを「見ず」にいられない。そして、見てしまった者は、決してその呪いから逃れられないのだと。谷間を通る旅人は、今もその場所を避ける。だが、時折、夜の闇に紛れて、誰かが哭き声を聞くという。まるで、宿がまだそこに在り、旅人を待ち続けているかのように。
今もなお、福井の山奥には、朽ち宿の伝説が息づいている。谷間の風が冷たく吹く夜、耳を澄ませば、遠くで女の哭き声が聞こえるかもしれない。だが、決してその声に耳を貸してはいけない。なぜなら、声の主は、あなたを朽ち宿へと誘う亡魂かもしれないのだから。