誰もいないはずの駅

実話風

それは今から20年ほど前、2005年の夏の夜のことだった。

東京都の郊外、都心から電車で1時間ほど離れた小さな駅に、私は降り立った。駅の名前は覚えているが、ここでは伏せておく。終電間際の時間帯で、ホームには誰もいなかった。薄暗い蛍光灯がチカチカと点滅し、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。私は当時、大学を卒業して間もない会社員で、残業で遅くなった帰り道だった。普段はもっと手前の駅で降りるのだが、その日は友人と飲みに行った帰りで、いつもと違う路線を使っていた。

駅を出ると、目の前には小さな商店街が広がっていたが、どの店もシャッターが下り、街灯だけが寂しく光っていた。夏の夜とはいえ、虫の声すら聞こえない静けさに、少しだけ背筋が寒くなった。駅から自宅までは徒歩で15分ほど。慣れない道だったが、携帯電話の地図を頼りに歩き始めた。

商店街を抜け、住宅街に入ると、道はさらに暗くなった。街灯の間隔が広く、時折、電柱の影が不自然に長く伸びているように感じた。歩きながら、ふと後ろを振り返った。何か気配を感じたのだ。しかし、そこには誰もいない。ただ、遠くで犬が遠吠えする声が聞こえただけだった。

「気のせいか」

自分にそう言い聞かせ、歩みを進めた。だが、しばらくすると、また同じ気配を感じた。今度ははっきりと、誰かが後をつけてくるような感覚だった。足音はない。だが、視線のようなものが背中に突き刺さる。振り返っても、暗い道に人影はない。心臓がドクドクと鳴り始め、冷や汗が背中を伝った。

急いで歩みを速めた。早く家に着きたかった。角を曲がり、小さな公園の前を通り過ぎる。公園のブランコが、風もないのにかすかに揺れているのが見えた。思わず立ち止まり、目を凝らした。誰もいない。だが、ブランコの揺れは止まらない。まるで誰かがそこに座っていたかのように、規則的に揺れていた。

「見なかったことにしよう」

私は目を逸らし、走るように歩き出した。心の中で、ただの風だと自分を納得させようとした。だが、頭の片隅で、別の考えがよぎる。この辺りは、昔、大きな事故があった場所だと聞いたことがある。詳細は覚えていないが、電車が脱線し、多くの人が亡くなったという噂だった。

ようやく自宅のアパートが見えてきた。古びた2階建ての建物で、階段の鉄の手すりが錆びついている。ホッとしたのも束の間、階段を登る私の背後で、かすかな音がした。カツ、カツ、という小さな足音。子供の革靴のような、軽やかな音だった。振り返ったが、誰もいない。階段の下は暗闇に沈んでいる。

「疲れてるんだ。幻聴だ」

そう呟き、鍵を開けて部屋に飛び込んだ。ドアを閉め、鍵をかける。部屋の中は静かで、いつもと変わらない。電気をつけ、冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに腰を下ろした。テレビをつけ、ニュースの音で気を紛らわせようとした。だが、心のどこかで、あの足音が頭から離れなかった。

その夜、なかなか寝付けなかった。窓の外から、時折、風とは思えない奇妙な音が聞こえてくる。まるで誰かが窓を叩いているような、コン、コン、という音。カーテンを開ける勇気はなかった。枕を抱え、布団をかぶって朝を待った。

翌朝、疲れ切った身体で会社に向かうため、再びあの駅に向かった。朝のホームは、昨夜の不気味さとは打って変わって、普通の通勤風景だった。サラリーマンや学生が電車を待っている。私は少し安心したが、昨夜の出来事が頭を離れなかった。

その日、会社で同僚に何気なくその話をした。すると、彼の顔が曇った。

「あの駅、変な噂あるよな」

彼の言葉に、私は思わず身を乗り出した。彼によると、その駅の近くでは、20年以上前に大きな電車事故があったという。多くの人が亡くなり、特に子供の犠牲者が多かったそうだ。事故の後、駅周辺では奇妙な体験をする人が後を絶たない。特に、夜遅くに子供の足音を聞いたり、誰もいないはずのホームで笑い声を聞いたりする人がいると言う。

「まさか」

私は笑ってごまかしたが、内心、昨夜の足音が脳裏をよぎった。それ以来、私はできるだけあの駅を使わないようにした。だが、仕事の都合でどうしても通らなければならない時がある。そんな時、必ずイヤホンで音楽を流し、目を地面に落として歩く。振り返らない。気配を感じても、絶対に後ろを見ない。

数年後、私はその街を離れた。新しい職場、新しい生活。だが、あの夜のことは今でも忘れられない。時折、夢の中であの駅のホームに立っている自分を見る。薄暗い蛍光灯の下で、遠くからカツ、カツ、という足音が近づいてくる。振り返ると、誰もいない。だが、背後で小さく笑う声が聞こえるのだ。

今でも、夜遅くに知らない駅で電車を降りる時、ふとあの夜のことを思い出す。そして、決して振り返らないように、心に誓うのだった。

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