今から数十年前、愛媛県の山深い村に、小さな神社があった。村人たちはその神社を『奥の宮』と呼び、代々大切に守ってきた。神社の裏手には鬱蒼とした杉林が広がり、昼間でも薄暗く、鳥の声すら途絶えるような静寂が支配していた。村の古老たちは、子どもの頃から「奥の宮には夜、絶対に近づくな」と口酸っぱく言われていた。理由を尋ねても、どの大人も口を閉ざし、ただ「決まりだから」と繰り返すだけだった。
その村に、若い教師が赴任してきた。都会育ちの彼は、村の風習や言い伝えを「迷信」と笑い、子どもたちに「科学的な思考」を教えることに熱心だった。ある夏の夕暮れ、彼は村の子どもたちから奥の宮の話を耳にした。「夜に行くと、帰ってこられない」と怯える子どもたちに、彼は笑いながら言った。「そんな話、信じるなよ。よし、俺が今夜行って、なんでもないって証明してやる。」子どもたちは顔を青ざめ、必死に止めたが、教師は意気揚々と神社へと向かった。
その夜、村はひどい雷雨に見舞われた。稲妻が空を裂き、雷鳴が山々にこだました。教師は傘も差さず、懐中電灯を手に奥の宮への石段を登った。石段は苔むし、雨で滑りやすくなっていたが、彼は「こんなことで怖気づくか」と自分を鼓舞した。神社の鳥居が見えたとき、懐中電灯の光が一瞬揺れた。風のせいだと思ったが、どこか胸騒ぎがした。
鳥居をくぐると、境内は不気味なほど静かだった。雨音すら遠くに聞こえ、まるで別の世界に迷い込んだようだった。拝殿の前には、古びた賽銭箱がぽつんと置かれていた。教師は「ほら、なんでもない」と呟き、賽銭箱に近づいた。その瞬間、背後でかすかな足音がした。砂利を踏む、湿った音。振り返ると、誰もいない。懐中電灯で辺りを照らしたが、雨に濡れた地面と杉の木々があるだけだった。
「気のせいか」と自分に言い聞かせ、彼は拝殿に目を戻した。すると、賽銭箱の向こう、拝殿の暗がりに人影が見えた。白い着物を着た女が、じっとこちらを見つめている。顔は暗くて見えないが、長い黒髪が雨に濡れて張り付き、異様な雰囲気を放っていた。教師は一瞬凍りついたが、気を取り直して呼びかけた。「おい、こんな時間に何してるんだ? 危ないぞ!」
女は答えず、ただ立ち尽くしていた。教師は苛立ちと不安が入り混じり、懐中電灯を女に向けた。光が女の顔を照らした瞬間、彼は息をのんだ。女の顔には目も鼻も口もなかった。ただ真っ白な皮膚が広がっているだけだった。教師は悲鳴を上げ、懐中電灯を落とした。光が消え、暗闇が彼を飲み込んだ。
翌朝、村人たちが教師の姿がないことに気づき、捜索隊が組まれた。奥の宮の境内には、教師の懐中電灯と靴が落ちていたが、彼の姿はどこにもなかった。村人たちは顔を見合わせ、誰も口を開かなかった。ただ、古老の一人が小さく呟いた。「あそこに行った者は、帰ってこん…」
それから数年後、村に新たな噂が広がった。夜、奥の宮の石段を登る足音が聞こえるというのだ。村人たちが恐る恐る境内を覗くと、拝殿の前に立つ白い着物の女の隣に、若い男が立っているのが見えた。男は無言で参拝を繰り返し、その顔には目も鼻も口もなかった。村人たちは二度と奥の宮に近づかなくなり、神社は次第に荒れ果てていった。
今でも、愛媛のその山奥では、雷雨の夜に石段を登る足音が聞こえるという。足音は決して途切れず、夜が明けるまで続く。そして、もしその音に耳を傾けすぎると、背後に誰かが立つ気配を感じる。振り返っても誰もいないが、どこかで無言の視線があなたを見つめているのだ。
村の古老が最後に残した言葉はこうだった。「奥の宮は、生き物の場所じゃない。あそこは、帰れなかった者たちの居場所だ。」
あなたは、雷雨の夜、山道を歩くとき、背後に足音を感じたことはないだろうか。そして、振り返る勇気はあるだろうか。