1995年の夏、鹿児島県の山深い集落に住む高校生の少年は、夏休みの宿題を片付けるため、祖父の家に預けられていた。集落は霧島連山のふもとにあり、鬱蒼とした森に囲まれ、夜ともなれば漆黒の闇が全てを飲み込むような場所だった。少年は都会育ちで、こんな田舎に閉じ込められることに不満たらたらだったが、祖父の家には不思議な魅力があった。古い木造の家屋は、どこか時間の流れを拒むような重厚さを持ち、軒下には古びた風鈴が微かな音を立てていた。
ある日、少年は祖父から「谷の奥にある古い祠には近づくな」と厳しく言い聞かされた。祖父の目は普段の穏やかさとは打って変わり、鋭く少年を射抜いた。祠の話は集落でもタブーとされ、子供たちの間では「行くと帰ってこられない」と囁かれていた。だが、好奇心旺盛な少年にとって、そんな警告はかえって冒険心を煽るだけだった。
その夜、少年は懐中電灯を手に、こっそり家を抜け出した。霧が立ち込める谷へ向かう道は、昼間でも薄暗い獣道だった。木々の間を抜ける風がまるで呻き声のように聞こえ、少年の心臓は高鳴った。それでも、「ただの迷信だ」と自分を励まし、祠を目指した。谷の奥に進むにつれ、霧はますます濃くなり、懐中電灯の光すら飲み込まれそうだった。足元は湿った土と苔に覆われ、時折、遠くで何かが動く気配がした。
やがて、少年は古びた石の祠にたどり着いた。苔むした祠は、まるで何百年もそこに佇んでいるかのようだった。祠の周囲には不気味な静けさが漂い、風すら止んでいるように感じられた。少年は祠に近づき、内部を覗き込んだ。そこには何もなかった。ただ、黒々とした闇が広がっているだけだった。だが、その瞬間、背筋に冷たいものが走った。背後でかすかな足音がしたのだ。
振り返ると、誰もいない。だが、霧の中に人影のようなものが揺れている気がした。少年は慌てて懐中電灯を振り回したが、光は霧に吸い込まれるだけだった。「誰だ!」と叫んだ声は、谷に反響して不気味に響き返ってきた。恐怖が少年を支配し始めたその時、祠の奥から低いうめき声が聞こえた。人間の声とも、獣の声ともつかない、異様な音だった。少年は後ずさりしたが、足がもつれて転倒した。懐中電灯が手から滑り落ち、地面に転がった光が祠の奥を照らし出した。
そこには、ぼんやりと白い人影が浮かんでいた。顔はなく、ただ黒い穴のような目が少年をじっと見つめていた。少年は叫び声を上げ、這うようにして逃げ出した。だが、谷の道はまるで迷路のように入り組み、霧はさらに濃くなっていた。どれだけ走っても、木々の間から同じ祠が見える気がした。息が切れ、足が震える中、少年は気づいた。自分の足音以外に、もう一つの足音がすぐ後ろで響いていることを。
パニックに陥った少年は、必死に走り続けた。だが、突然、足元が空を切り、少年は崖から転落した。次の瞬間、激しい衝撃とともに意識が途切れた。どれくらい時間が経ったのか、少年が目を覚ますと、谷底に横たわっていた。体は痛みに悲鳴を上げ、動くことすらままならなかった。霧は晴れ、月明かりが谷を照らしていた。だが、少年の周囲には不気味な気配が漂っていた。
遠くから、かすかな歌声が聞こえてきた。女の声とも、子供の声ともつかない、奇妙に歪んだメロディだった。少年は恐怖に震えながら、這うようにして岩陰に隠れた。歌声は徐々に近づき、やがて複数の人影が月明かりの下に現れた。白い着物をまとい、顔のない影たちが、ゆっくりと少年の方へ近づいてくる。少年は息を殺し、必死に祈った。「見つかりませんように」と。
だが、影たちは少年のすぐそばで立ち止まった。一つの影が、ゆっくりと顔のない顔を少年の方へ向けた。その瞬間、少年の胸に鋭い痛みが走り、目の前が真っ暗になった。心臓が止まるような感覚の中、少年は再び意識を失った。
次に目を開けた時、少年は祖父の家の布団の中にいた。全身が痛み、まるで夢を見ていたかのようだった。だが、祖父の顔は青ざめ、少年の体に巻かれた包帯が現実を物語っていた。祖父は少年が谷底で倒れているのを、夜明けに発見したのだという。だが、少年が「顔のない影」について話すと、祖父は黙り込み、ただ「二度と谷へ行くんじゃない」とだけ言った。
少年はその後、集落を離れ、都会に戻った。だが、あの夜の記憶は消えることはなかった。時折、夜中に目を覚ますと、遠くで歌声が聞こえる気がした。医者は少年の胸の痛みを「事故の後遺症」と診断したが、少年にはわかっていた。あの顔のない影が、少年の心に何かを残していったのだと。
今でも、霧島連山の谷では、夜になると奇妙な歌声が響くという。地元の人々は決してその谷に近づかない。そして、少年は二度と鹿児島の地を踏むことはなかった。