呪われた山の叫び声

呪い

高知県の山奥、鬱蒼とした森に囲まれた小さな集落があった。今から20年ほど前、2005年の夏、私は大学の民俗学ゼミの調査でその集落を訪れた。目的は、古老から地域に伝わる怪奇譚を収集すること。集落は外界から隔絶され、携帯電話の電波も届かず、まるで時間が止まったような場所だった。

集落に着いた初日、村の公民館で70歳を過ぎる古老たちから話を聞いた。彼らは穏やかに昔話を語る一方で、ある話題になると口を閉ざした。それは、集落の裏手にそびえる「鬼哭山(きこくやま)」にまつわる話だ。地元の人間は決してその山に近づかない。理由を尋ねると、皆一様に目を逸らし、「あそこは呪われている」とだけ呟いた。

調査を進めるうち、私はどうしても鬼哭山の秘密を知りたくなった。ゼミの仲間たちは「深入りするな」と忠告したが、好奇心が抑えきれなかった。3日目の夜、懐中電灯とメモ帳を手に、私は一人で山へと向かった。月明かりが薄く、木々の間を縫う風が不気味な音を立てていた。山の入口には古びた鳥居が立っており、苔むした石碑には読めない文字が刻まれていた。

山道を登り始めて30分ほど経った頃、遠くから奇妙な音が聞こえてきた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれは人の声のようだと気づいた。低く、呻くような声。誰かが苦しんでいるのか、それとも歌っているのか。声は断続的に響き、時折鋭い叫び声に変わった。私は恐怖を感じながらも、音のする方向へ足を進めた。

やがて、開けた場所に出た。そこは小さな空き地で、中央に古い石祠があった。祠の周りには赤い紐が張り巡らされ、まるで何かを封じ込めるかのようだった。声はそこから聞こえてくる。祠に近づくと、突然、背筋が凍るような感覚に襲われた。振り返ると、誰もいない。だが、明らかに視線を感じた。木々の影が揺れ、まるで生きているかのように私の周りを蠢いていた。

その時、祠の中から「助けてくれ」という声がはっきりと聞こえた。男とも女ともつかない、掠れた声。私は震える手で懐中電灯を祠に向けた。すると、祠の隙間から黒い影が蠢いているのが見えた。それは人の形をしていたが、異様に細長く、まるで骨と皮だけでできた生き物のようだった。影は私を見つめ、ゆっくりと這い出してきた。

私は悲鳴を上げ、逃げ出した。背後で何かが追いかけてくる気配がした。木の枝が顔を擦り、足がもつれながらも必死で山を下った。どれだけ走ったか分からない。ようやく集落の明かりが見えた時、背後の気配が消えた。振り返ると、誰もいなかったが、遠くの山から再びあの叫び声が響いてきた。今度は複数の声が重なり、まるで私を嘲笑うかのようだった。

翌朝、集落の古老に昨夜のことを話した。彼は顔を青ざめ、「お前は呪われた」と告げた。古老の話によると、鬼哭山には古くから「怨霊」が封じられているという。数百年前、集落を襲った疫病を鎮めるため、村人たちは生贄を捧げ、その魂を山に封じた。しかし、封印は完全ではなく、時折、怨霊が外に漏れ出し、近づいた者を呪うのだという。私が祠で見たものは、その怨霊の一体だった。

古老は私に、村の神主に祈祷してもらうよう勧めた。神主は厳粛な表情で儀式を行い、私の体に塩を振り、護符を渡してくれた。「これで呪いは収まるはずだ。ただし、二度と山に近づくな」と彼は言った。私は護符を握りしめ、集落を後にした。

それから数週間、奇妙なことが続いた。夜中に叫び声で目が覚めることがあり、夢ではあの黒い影が私の枕元に立っていた。大学の友人たちには「疲れているだけだ」と笑われたが、私は確信していた。あの山で何かを持ち帰ってしまったのだ。

ある夜、限界を感じた私は、護符を手に再び高知県へ向かった。集落にはもう誰もおらず、公民館も朽ち果てていた。仕方なく、鬼哭山のふもとまで行き、護符を地面に埋め、必死で祈った。すると、風が急に止み、静寂が訪れた。叫び声も、夢も、その日を境にぴたりと止んだ。

今でも、あの山での出来事を思い出すと体が震える。あの祠に何が封じられていたのか、なぜ怨霊が生まれたのか、真相は分からない。ただ一つ確かなのは、私は二度と鬼哭山に近づかないということだ。もし、あなたが高知の山奥を訪れることがあれば、決して裏手の山に足を踏み入れないでほしい。あの叫び声は、今もどこかで響いているかもしれない。

(了)

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