黒い影の棲む廃隧道

実話風

富山県の山間部に住む俺は、普段から地元の山道をバイクで走り回っている。29歳、独身、仕事は運送業だ。山の空気が好きで、夜になるとよく県道を抜けて、誰もいない峠道を飛ばすのが日課だった。特に、富山の山は静かで、星がよく見える。だが、あの夜、俺は二度と忘れられないものを目にしてしまった。

その日は残業で遅くなり、時計はすでに23時を回っていた。いつものようにバイクに跨り、ヘルメットのシールドを下ろして県道を走り出した。目的地は特に決めていなかったが、なんとなく山の奥にある古い隧道を目指していた。地元じゃ「黒部隧道」と呼ばれる、戦前に作られた古いトンネルだ。今は新しい道路ができたから、ほとんど使われていない。子供の頃、近所の爺さんから「夜にあそこを通ると、変なもんが出る」と聞かされていたが、俺はそんな話を信じるタイプじゃない。都市伝説だろ、くらいにしか思ってなかった。

山道を登り、舗装が荒れた細い道に入る。ヘッドライトが木々の間を切り裂き、時折、鹿や狸が道を横切るのが見えた。エンジンの音が山に響き、俺の心臓の鼓動とシンクロする。黒部隧道の入り口が見えてきた。コンクリートは苔で緑に染まり、入り口の上には錆びた鉄の看板が傾いている。トンネルの中は真っ暗で、まるで光を吸い込むような闇が広がっていた。

「別に怖くねえよ」と自分に言い聞かせ、アクセルをひねった。トンネルに入ると、エンジン音が反響して不気味な低音に変わる。ヘッドライトが照らす範囲は狭く、壁のひび割れや水滴がキラキラ光るのが見えた。気温が急に下がり、ヘルメットの中で息が白くなる。妙だな、と思った。11月とはいえ、こんなに冷えるはずがない。

トンネルの半ばくらいまで進んだとき、急にバイクのエンジンが咳き込むような音を立てた。「おい、マジかよ」と思いながらアクセルを緩めると、突然、ライトがチカチカし始めた。電装系がやられたか? 焦りながらバイクを停め、ヘルメットを脱いでエンジンをチェックしようとしたその瞬間、背筋に冷たいものが走った。

静寂。エンジン音が止まり、トンネルの中は完全な無音に包まれた。耳鳴りがするほど静かで、まるで世界から音が消えたみたいだった。嫌な予感がした。振り返ると、トンネルの入り口は遠く、出口も見えない。闇が俺を飲み込もうとしているような錯覚に襲われた。

そのとき、トンネルの奥から「カツン、カツン」という音が聞こえてきた。誰かが歩いている? いや、こんな時間にこんな場所に人がいるわけがない。音は徐々に近づいてくる。俺は懐中電灯を取り出し、闇の奥を照らした。光の先には何もない。ただ、音は止まらない。「カツン、カツン」。まるで硬い靴でコンクリートを叩くような、規則正しいリズムだ。

「誰だよ!」と叫んだが、声はトンネルに吸い込まれ、虚しく響くだけだった。音が近づくにつれ、俺の心臓はバクバクと暴れ出した。懐中電灯を握る手が震える。すると、突然、ライトの光が何か黒い影を捉えた。一瞬だったが、確かに見えた。人間の形をした、黒いシルエット。だが、そいつの顔はなかった。目も鼻も口もない、ただの黒い塊がそこに立っていた。

「うわっ!」と叫んで後ずさりした瞬間、バイクが勝手に動き出した。エンジンは止まっているはずなのに、まるで誰かに押されているようにゆっくりと前に進む。「なんだこれ!?」と慌ててハンドルを握ったが、バイクは俺の意思を無視して加速していく。トンネルの出口に向かって、まるで何かに導かれるように。

その間も、「カツン、カツン」という音は背後で鳴り続け、どんどん近づいてくる。振り返る勇気はなかった。首筋に冷や汗が流れ、歯がガチガチと鳴る。出口が見えた瞬間、バイクは急に停止し、俺は前のめりに倒れそうになった。トンネルの外に出た途端、エンジンが再び動き出し、まるで何事もなかったかのように正常に戻った。

息を切らしながら振り返ると、トンネルの入り口は静まり返っていた。あの黒い影も、音も、すべてが消えていた。だが、俺の背中はびっしょりと汗で濡れ、膝はガクガク震えていた。急いでバイクに跨り、その場を離れた。二度とあのトンネルには近づきたくないと思った。

家に帰ってからも、あの夜のことは頭から離れなかった。次の日、会社の先輩にその話をすると、彼は真顔でこう言った。「お前、黒部隧道の話、知らねえの? あそこ、昔、工事中に何人も死んだんだよ。事故とか病気とかでな。それ以来、夜になると変なもんが出るって噂だ。特に、顔のない黒い影を見たやつは、必ず何か悪いことが起きるって言われてる」

ゾッとした。俺はあの影を見た。悪いことってなんだ? それから数日、俺は妙な夢を見るようになった。トンネルの中で、黒い影が俺を見つめている夢だ。そいつは顔がないのに、俺のことをじっと見ている。目が覚めると、全身が汗でびっしょりだ。

ある夜、ついに我慢できなくなって、地元の神主に相談しに行った。60歳くらいの穏やかな人で、俺の話をじっくり聞いてくれた。「それは、隧道に縛られた魂かもしれないな」と神主は言った。「昔の事故で死んだ者たちが、未だにそこを彷徨っている。あの場所は、生き物の気配を嫌う。夜に近づいたお前が、そいつらの注意を引いたんだろう」

神主は俺に塩と御札を渡し、「これを持って、もう一度トンネルに行きなさい」と言う。「魂を鎮めるために、入り口で祈りを捧げなさい。でないと、そいつはお前を追い続けるかもしれない」

正直、戻りたくなかった。だが、毎晩の悪夢と、背中に感じる冷たい視線に耐えられなかった。次の週末、俺は塩と御札を握りしめ、夜の黒部隧道に向かった。トンネルの入り口に立つと、あの夜の恐怖が蘇る。手が震えたが、意を決して塩を撒き、御札を地面に置いた。神主に教わった祝詞を、声が震えながらも唱えた。

その瞬間、風が吹いた。まるでトンネルの奥から吐き出されたような、冷たく重い風だ。俺の背後で「カツン」という音が一回だけ響き、すぐに消えた。それきり、何も起こらなかった。だが、俺は感じた。あの黒い影が、どこか遠くへ去っていくのを。

それ以来、悪夢は見なくなった。背中の視線も感じなくなった。だが、俺は二度とあのトンネルには近づかない。あの場所には、俺たちの理解を超えた何かが棲んでいる。黒部隧道は、ただの古いトンネルじゃない。そこは、死者たちの領域だ。

今でも、夜の山道を走るとき、遠くで「カツン、カツン」と音が聞こえる気がする。俺は振り返らない。振り返ったら、またあの顔のない影が立っているかもしれないから。

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