香川県の山奥、鬱蒼とした森に囲まれた集落に、今から数十年前、ひっそりと佇む古い寺があった。
その寺は、いつしか人が寄りつかなくなり、苔むした石段と朽ちかけた本堂だけが、時の流れに耐えていた。
地元の者は、その寺を「子守唄の寺」と呼んでいた。
夜な夜な、どこからともなく子守唄が聞こえるというのだ。
ただ、その唄は優しく子をあやすものではなく、聞く者の心を凍てつかせる、不気味な旋律だった。
私が生まれ育った集落は、その寺から数キロ離れた場所にあった。
子供の頃、祖母から「寺には近づくな」と何度も言い聞かされた。
理由を尋ねても、祖母はただ目を細め、「あそこには、人のものじゃない声が棲んでる」と呟くだけだった。
だが、子供の好奇心は抑えがたい。
中学に上がった夏、友人のタケシとユウジを誘い、寺へ肝試しに行くことを決めた。
その夜、月明かりも薄い闇の中、懐中電灯を手に森の小道を進んだ。
夏の夜だというのに、空気は冷たく、虫の声すら聞こえない。
「本当にこんなとこに寺なんかあんのかよ」とユウジが笑って言ったが、その声はどこか震えていた。
タケシは無言で前を歩き、私も黙って後ろをついていった。
やがて、木々の隙間から、黒々とした寺の影が浮かび上がった。
本堂の扉は半分朽ち、風に揺れて軋む音を立てていた。
苔に覆われた石段を登り、恐る恐る中を覗くと、埃と湿気、そして何か甘ったるい匂いが鼻をついた。
「なんの匂いだ、これ」とタケシが呟いた瞬間、どこからか、かすかな音が聞こえた。
「ラ…ラ…ル…ラ…」
子守唄だった。
だが、それは人間の声とは思えない、ひび割れたような、まるで古いレコードのような音だった。
私たちは凍りついた。
懐中電灯の光をあちこちに当てたが、誰もいない。
ただ、音は徐々に大きくなり、本堂の奥から響いてくるようだった。
「やばい、帰ろう!」ユウジが叫び、踵を返そうとしたその時、本堂の奥、暗闇の中に、ぼんやりとした白い影が揺れているのが見えた。
それは、女の姿だった。
長い髪が顔を覆い、白い着物がぼろぼろに裂けている。
その女が、ゆっくりとこちらに顔を向けた瞬間、懐中電灯が突然消えた。
暗闇の中、子守唄が一層大きく響く。
「ラ…ル…ラ…ル…」
その声は、もはや唄ではなく、呻き声のように聞こえた。
パニックになったユウジが叫びながら走り出し、タケシも私を置いて逃げ出した。
私も走ろうとしたが、足がまるで地面に縫い付けられたように動かない。
そして、耳元で、はっきりとその声が囁いた。
「子を…返せ…」
次の瞬間、背中に冷たい手が触れた。
それは、骨ばった指が私の肩を掴む感触だった。
叫び声を上げ、ようやく足が動き、私は寺を飛び出した。
森を駆け抜け、集落に戻った時には、夜が明けかけていた。
タケシとユウジは既に家に戻っており、二人とも口を揃えて「あの女を見た」と震えながら話した。
それから数日後、集落の古老から、寺の過去を聞いた。
戦後間もない頃、寺に若い女が身を寄せていたという。
彼女は子を身ごもっていたが、貧しさと病で子を失い、自身も命を落とした。
その後、寺は荒れ果て、彼女の霊が子を求めて彷徨っていると噂された。
古老は言った。
「彼女は、子を失った悲しみで、生きる者の子を奪おうとする。決して寺に近づいてはならん。」
あの夜から、私は二度と寺に近づかなかった。
だが、時折、夜中に目を覚ますと、遠くから子守唄が聞こえる気がする。
それは、優しい旋律ではなく、私の心を締め付ける、冷たく悲しい声だった。
今でも、あの寺がまだ森の奥に佇んでいると思うと、背筋が凍る。
そして、もし誰かがあの寺に足を踏み入れたら、彼女の声が再び響き、子を求める手が伸びてくるのではないかと、恐ろしくて仕方がない。