長崎の市街地を走る路面電車は、観光客にも地元民にも愛される存在だ。赤と白の車体が、カタカタとレールを鳴らしながら坂の街を縫うように進む姿は、どこか懐かしく、安心感すら覚える。だが、私が体験したあの夜の出来事は、その印象を一変させた。
私は大学を卒業後、長崎市内の小さな会社に就職した。仕事は忙しく、残業が続く日々だった。ある晩、終電間際の路面電車で帰宅することになった。時刻は深夜0時を少し回った頃。駅のホームはひっそりと静まり、冷たい海風が頬を撫でる。電車が到着し、ガラガラの車内に乗り込んだ。座席には私以外に、遠くの席に座る中年男性と、窓際に立つ若い女性がいるだけだった。
電車が動き出し、カタカタというリズミカルな音が車内に響く。私は疲れ果て、ぼんやりと窓の外を眺めていた。街灯が点々と過ぎ去り、坂道の家々が暗闇に溶け込む。すると、ふと視界の隅で何かが動いた気がした。窓に映る自分の顔の横、まるで誰かが立っているような黒い影が一瞬だけ揺れた。振り返っても、そこには誰もいない。女性は窓際でスマホをいじり、男性はうつむいたまま。気のせいかと思い、目をこすった。
だが、それから妙なことが続いた。電車が次の停留所に停まるたび、車内の空気が重くなるような感覚があった。誰も乗ってこないのに、なぜか座席の数が減っている気がする。いや、減っているというより、誰かが座っているような圧迫感があるのだ。視線を感じる。誰かに見られている。そんな感覚が背筋を這う。女性がチラリとこちらを見たが、すぐに目を逸らした。彼女の表情には、どこか怯えたような色が浮かんでいた。
電車がさらに進むと、車内の電気が一瞬チカチカと点滅した。蛍光灯の不調かと思ったが、その瞬間、窓に映る影がまた現れた。今度ははっきりと。黒い人影が、私のすぐ背後に立っている。心臓が跳ね上がり、慌てて振り返ったが、やはり誰もいない。だが、背後の座席に何かがある。座席のクッションが、誰かが座ったようにわずかに凹んでいるのだ。
「…何?」
思わず声が漏れた。男性が顔を上げ、怪訝そうにこちらを見た。女性は気づかないのか、じっと窓の外を見つめている。私は息を整え、落ち着こうとした。だが、電車が次の停留所に差し掛かったとき、異変が起きた。停留所の看板が見えた瞬間、電車の速度が急に落ち、ガクンと揺れた。まるで何か重いものを引きずるような、異様な音が床下から響く。運転手の声がスピーカーから流れた。
「申し訳ございません、ただいま点検のため、しばらく停車いたします。」
その声は妙に平板で、感情がこもっていないように聞こえた。車内が静まり返る中、窓の外に目をやると、停留所の薄暗い明かりの下に人影が見えた。いや、人影というより、黒い塊のようなもの。立っているのか、浮いているのかわからない。じっとこちらを見ているような気がした。ゾクリと寒気が走り、目を逸らした瞬間、車内の電気が再びチカチカと点滅。そして、消えた。
暗闇に包まれた車内。カタカタというレールの音だけが響く。私は息を殺し、動けずにいた。すると、背後からかすかな囁き声が聞こえた。言葉は聞き取れないが、複数の声が重なり合うような、不気味な響き。振り返る勇気はなかった。女性の小さな悲鳴が聞こえ、彼女が座席から立ち上がる音がした。男性も何か呟いている。だが、誰も動こうとしない。まるで全員が同じ恐怖に縛られているかのように。
どれくらい時間が経ったのか。突然、電気が復旧し、車内が明るくなった。ホッとしたのも束の間、異変に気づいた。女性がいない。彼女がいたはずの窓際の座席は空っぽで、スマホだけが床に落ちている。男性はうつむいたまま、震えているように見えた。私は立ち上がり、運転席の方へ向かおうとしたが、足がすくんで動けない。すると、電車が再び動き出した。だが、妙なことに、窓の外の景色がさっきと同じだった。同じ停留所、同じ看板、同じ暗闇。何度も同じ場所をループしているような感覚に襲われた。
パニックになりながらも、私はスマホを手に取り、助けを呼ぼうとした。だが、画面は真っ黒で、電源が入らない。男性がついに口を開いた。
「…ここ、抜け出せないよ。」
彼の声は震え、目には涙が浮かんでいた。「何年も前から、この電車は…」彼の言葉はそこで途切れ、急に目を閉じた。まるで何かに操られるように、頭をガクンと下げた。私は叫びそうになったが、声が出ない。そのとき、窓に映る影がまた現れた。今度は一人ではない。複数の影が、車内を埋め尽くすように揺れている。私は目を閉じ、ただ祈ることしかできなかった。
気がつくと、私は自宅のベッドにいた。朝日がカーテンの隙間から差し込み、時計は7時を指している。夢だったのか? だが、服は昨夜のまま、靴も履いたままだった。手に握りしめていたスマホを見ると、画面にひびが入り、電源が入らない。混乱しながらも、私は会社に向かった。だが、街に出ると、違和感を覚えた。路面電車の停留所に、昨夜のあの看板がない。いや、そもそもその停留所自体が存在しない。地元の人に聞いても、「そんな停留所、聞いたことない」と首を振るばかり。
それから数日後、会社の同僚にこの話をした。すると、彼は顔を青ざめ、こう言った。「それ、昔の話だよ。20年前、路面電車が脱線して、乗客が全員…」彼は言葉を飲み込み、黙ってしまった。私は背筋が凍り、言葉を失った。
今でも、夜中に目が覚めると、カタカタというレールの音が聞こえる気がする。そして、窓の外には、あの黒い影が揺れている。もう二度と、深夜の路面電車には乗れない。