滋賀県の湖畔に位置する小さな町。そこに、かつての繁栄を物語るように建つ、古びた中学校があった。校舎は二つに分かれていて、新しい本館と、戦後間もない頃に建てられた旧校舎があった。旧校舎は普段使われることはなく、倉庫代わりにされていたが、生徒たちの間では「夜になると変な音がする」という噂が絶えなかった。
その学校に通う中学二年の一樹は、怖い話が大好きだった。夏休み前のある日、クラスメイトの彩花から「旧校舎で肝試しをしよう」と誘われた。一樹は好奇心を抑えきれず、彩花と、彼女の親友である優奈、そして一樹の幼馴染の翔太の四人で、夜の学校に忍び込む計画を立てた。学校は町の外れにあり、周囲は田んぼと森に囲まれている。夜になると、街灯の光も届かず、闇が濃く沈む場所だった。
約束の夜、午後九時。校門の裏手に集まった四人は、懐中電灯を手に緊張した面持ちで旧校舎の裏口へ向かった。鍵はかかっていなかった。錆びたドアを押すと、軋む音が夜の静寂を破った。校舎の中は、湿った木材と埃の匂いが充満していた。廊下の床はところどころ剥がれ、窓ガラスは曇って外の景色を歪ませていた。
「なんか、ほんとに出そうじゃん…」と優奈が震える声で呟いた。彩花は「ビビらないでよ! これくらい平気でしょ」と強がったが、彼女の手も微かに震えていた。一樹は心臓が早鐘を打つのを感じながら、懐中電灯で暗闇を照らした。光が届く範囲は狭く、その先はまるで生き物のように蠢く闇が広がっていた。
旧校舎の二階にある音楽室が、肝試しのゴールに設定された。そこには古いピアノがあり、「夜中に勝手に音を奏でる」という噂があった。四人は一階の廊下を進み、階段を目指した。歩くたびに床が軋み、その音が反響して不気味な雰囲気を増した。階段に差し掛かったとき、翔太が突然立ち止まった。
「…なんか、聞こえない?」
全員が息を潜めた。遠くから、かすかな音が聞こえてきた。キーン…キーン…。金属を擦るような、耳障りな高音だった。彩花が「風の音でしょ」と笑い飛ばそうとしたが、音は次第に近づいてきた。キーン…キーン…。まるで、誰かがゆっくりと刃物を研いでいるようなリズムだった。
「やばい、戻ろうよ…」優奈が泣きそうな声で訴えたが、一樹は「ここまで来て戻るなんてダサいよ」と強がって先を急いだ。だが、心のどこかで、引き返すのが正しい選択だと感じていた。階段を上りきると、音は一瞬止まった。ほっとしたのも束の間、今度は別の音が聞こえてきた。トン…トン…。ゆっくりとした足音が、廊下の奥から近づいてくる。
「誰かいる…?」翔太が囁いたが、答えはない。四人は固まって動けなかった。懐中電灯の光を音の方向に向けると、長い廊下の突き当たりに、ぼんやりとした人影が見えた。白い服を着た、髪の長い女の姿だった。光が当たった瞬間、彼女はこちらを向いた。顔はなかった。目も鼻も口もない、平らな皮膚だけがそこにあった。
優奈が悲鳴を上げ、懐中電灯を落とした。光が床を転がり、暗闇が一気に広がった。パニックになった四人は我先にと階段を駆け下り、出口を目指した。だが、ドアは閉まっていた。さっきまで開いていたはずの裏口が、まるで誰かに施錠されたように動かない。一樹が必死にドアを叩くと、背後で再びあの金属音が響いた。キーン…キーン…。今度はすぐ近くだった。
「お願い、開いて…!」彩花が泣きながらドアを叩いた。その時、ドアの向こうから別の音が聞こえた。ガリガリ…ガリガリ…。まるで誰かが外から爪でドアを引っ掻いているような音だった。恐怖で頭が真っ白になった一樹は、咄嗟に近くの教室に逃げ込んだ。四人は机の下に隠れ、息を殺した。
しばらくすると、音は止んだ。だが、安心する間もなく、教室の窓から外を覗いた翔太が小さな悲鳴を漏らした。窓の外、校庭の真ん中に、先ほどの人影が立っていた。顔のない女が、じっとこちらを見つめているように感じられた。懐中電灯の光が当たると、彼女の体が不自然に揺れ、まるで糸で吊られた人形のようだった。
「もうダメだ…出られない…」優奈が嗚咽を漏らした。その瞬間、教室のドアがゆっくりと開いた。誰も触っていないのに、錆びた蝶番が軋む音を立てて。キーン…キーン…。金属音が再び響き、今度は教室の中にまで聞こえてきた。四人は机の下で身を縮め、動くこともできなかった。
どれくらい時間が経ったのか。気付けば、窓の外が薄明るくなっていた。夜が明けたのだ。音は完全に止み、教室のドアも開いたままだった。四人は恐る恐る外に出ると、裏口のドアが開いていた。まるで何事もなかったかのように。急いで校舎を後にした四人は、二度と旧校舎に近づかなかった。
後日、一樹は学校の古い資料を調べた。旧校舎が建てられた当時、音楽室で事故があったという記録を見つけた。ピアノの調律中に、若い女性教師が誤ってピアノ線に巻き込まれ、命を落としたのだ。彼女の顔は、事故の衝撃で原型を留めていなかったという。それ以来、音楽室のピアノは使われなくなり、夜になると彼女の亡魂が彷徨うと言い伝えられていた。
一樹たちは、あの夜のことを誰にも話さなかった。だが、時折、校舎の裏でキーン…キーン…という音を耳にするたび、あの顔のない女の姿が脳裏に蘇るのだった。
あの旧校舎は、今も湖畔の町にひっそりと佇んでいる。夜になると、誰もいないはずの音楽室から、かすかなピアノの音が漏れ聞こえるという。あなたは、勇気を出して、その音の正体を確かめに行く?