徳島県鳴門市に、昔から地元民の間で囁かれる場所があった。山の奥深く、鬱蒼とした森にひっそりと佇む古い神社だ。地図にも載っていないその神社は、かつて村の守り神を祀っていたとされるが、数十年前に何らかの理由で封鎖され、以来、訪れる者はいなくなったという。だが、20年ほど前、僕と友人たちは好奇心に駆られ、その禁断の場所に足を踏み入れることになった。その時の出来事は、今もなお僕の心に暗い影を落としている。
当時、僕たちは大学1年生だった。夏休みのある夜、退屈を持て余していた僕たちは、地元の怖い話を肴に酒を飲んでいた。メンバーは僕を含めて4人。リーダー格のタケシ、いつも冗談ばかり言うユウジ、おとなしいけど妙に勘の鋭いマサト、そして僕だ。タケシが突然、「お前ら、鳴門の廃神社って知ってるか?」と切り出した。彼の地元では、その神社には近づくなと親から厳しく言われていたらしい。噂では、夜になると鈴の音が響き、訪れた者は二度と戻らないという。
「そんなのただの作り話だろ」とユウジが笑い飛ばすと、タケシはニヤリと笑って言った。「じゃあ、行ってみねえ? 本物かどうか確かめようぜ」その場のノリで話は決まり、僕たちは翌日の夜、懐中電灯とカメラを持って神社に向かうことにした。マサトだけは「なんか嫌な予感がする」と渋っていたが、結局、仲間外れになるのを嫌ってついてきた。
翌日、夕暮れ時。僕たちはタケシの原付と僕の軽自動車に分乗し、鳴門の山奥へと向かった。舗装されていない細い道を進むにつれ、街灯はなくなり、辺りは不気味な静けさに包まれた。カーナビも役に立たず、タケシの曖昧な記憶を頼りに進むしかなかった。やっとのことで、苔むした石段と朽ちかけた鳥居が見えてきた。そこが廃神社の入り口だった。
鳥居をくぐると、空気が一変した。夏の夜のはずなのに、肌寒く、湿った空気が体にまとわりつく。懐中電灯の光で照らされた参道は、雑草に埋もれ、ところどころ石が欠けていた。タケシが「ほら、なんともねえじゃん」と強がるが、ユウジの冗談もどこかぎこちない。マサトは無言で、ただ懐中電灯を握りしめていた。
参道の先には、本殿らしき建物があった。屋根は一部崩れ、壁には蔦が這い、まるで時間が止まったかのようだ。僕たちは本殿の前に立ち、しばらく周囲を見回した。確かに不気味だが、特別なことは何も起こらない。「ほら、ただの廃墟じゃん」とユウジが笑い、タケシがカメラを構えて写真を撮り始めた。だが、その時、マサトが小さく呟いた。「…聞こえる?」
全員が動きを止めた。耳を澄ますと、遠くから、かすかに「チリン…チリン…」と鈴の音が聞こえてきた。風もないのに、音は次第に近づいてくる。タケシが「誰かいるのか?」と叫んだが、返事はない。懐中電灯で周囲を照らすが、誰もいない。ユウジの顔から笑みが消え、マサトは震え始めていた。僕も心臓が締め付けられるような恐怖を感じていた。
「帰ろうぜ」とマサトが懇願したが、タケシは「ちょっとくらいでビビるなよ」と強気だった。彼は本殿の扉に手をかけ、力任せに開けた。中は真っ暗で、懐中電灯の光が届かないほど深い闇が広がっていた。と、その時、鈴の音が急に大きくなり、「チリンチリン!」と耳元で響いた。ユウジが悲鳴を上げ、僕たちは慌てて本殿から飛び出した。
だが、参道に戻ると、様子がおかしかった。来たはずの道が、まるで迷路のように入り組んでいる。懐中電灯の光が届く範囲も狭くなり、木々の間から何かが動く影が見えた。マサトが「見ちゃダメだ!」と叫び、僕たちは必死に走った。どれだけ走っても鳥居が見えない。鈴の音は追いかけてくるように、どこからともなく響いてくる。
やっとの思いで鳥居にたどり着いた時、ユウジが突然立ち止まった。「カメラ…落とした」と彼は青ざめた顔で言った。タケシが「そんなもんほっとけ!」と怒鳴ったが、ユウジは「絶対に取り戻さなきゃ」と引き返そうとした。僕とマサトで必死に止めたが、彼は振り切って森の中に消えた。僕たちは仕方なく鳥居の外で待ったが、ユウジは戻らなかった。鈴の音も、ユウジが消えた瞬間、ピタリと止んだ。
その後、警察に通報し、捜索が行われたが、ユウジは見つからなかった。カメラも、ユウジの足取りも、一切の手がかりがなかった。タケシは「あいつのせいで…」と自分を責め、マサトは「あの時、もっと強く止めれば」と後悔した。僕も、なぜあの場所に行こうと思ったのか、悔やんでも悔やみきれなかった。
それから数年後、奇妙なことが起こった。タケシが当時撮った写真を整理していたら、1枚だけ異様な写真が見つかった。本殿の前で撮ったはずの写真に、僕たち4人以外の「何か」が写っていた。白い着物を着た、顔のない人影が、僕たちのすぐ後ろに立っていたのだ。タケシはその写真をすぐに燃やしたが、それ以来、彼は夜中に鈴の音を聞くようになったという。
今でも、鳴門の山奥には、あの廃神社がひっそりと佇んでいるという。地元の人々は決して近づかず、訪れた者を待ち受ける鈴の音は、20年経った今も鳴り続けているのかもしれない。僕たちは二度とあの場所には近づかないと誓ったが、夜、静かな部屋で耳を澄ますと、時折、遠くから「チリン…チリン…」と聞こえる気がして、背筋が凍るのだ。
あの夜、僕たちは何を呼び覚ましてしまったのか。そして、ユウジはどこへ消えたのか。答えは、きっとあの神社の闇の中に、永遠に閉じ込められている。

