朽ちた社の囁き

妖怪

私は、大学で民俗学を専攻する24歳の学生だ。夏休みを利用して、石川県の山間部にある集落でフィールドワークを行うことにした。目的は、古老たちから地域に伝わる妖怪譚を収集すること。指導教員から「その集落には、独特の信仰と怪談が残っている」と聞かされていた。私は、カメラとノート、そして少しの好奇心をリュックに詰めて、車で現地に向かった。

集落に着いたのは、夕暮れ時だった。山の斜面に点在する古い家々は、どれも苔むした瓦屋根で、まるで時間が止まったかのよう。集落の入り口には、小さな神社があったが、鳥居は傾き、拝殿は朽ちかけていた。地元の人に挨拶をすると、みな一様に疲れたような笑顔を浮かべ、どこかよそよそしい。私は、宿泊先として紹介された民宿に荷物を置くと、さっそく古老に話を聞きに行くことにした。

最初に訪ねたのは、集落で一番年配だという老婆だった。彼女は、囲炉裏のそばで糸を紡ぎながら、私の質問に答えてくれた。「この辺りには、昔から『オクノカミ』というものがいるよ」と彼女は低い声で語り始めた。オクノカミは、山の奥に棲む妖怪で、人の心の隙間に入り込み、恐怖や疑心を増幅させるのだという。「若い人は知らんかもしれんけど、あの社の裏に近づくんじゃないよ。あそこはオクノカミの通り道だから」。老婆の目は、まるで私を試すように鋭かった。

その夜、民宿の部屋で録音を整理していると、窓の外から奇妙な音が聞こえてきた。カサカサと、枯れ葉が擦れるような音。窓を開けて外を見たが、闇が広がるばかりで何も見えない。風もないのに、音は断続的に続いた。不気味に思いつつも、疲れていた私はそのまま眠りに落ちた。

翌日、集落の別の住人に話を聞く中で、老婆が言っていた「社の裏」について尋ねてみた。すると、相手の顔が一瞬曇った。「あそこには行かない方がいいよ。昔、子供が迷い込んで、帰ってきた時には別人みたいになってたって話がある」。具体的なことは誰も語らず、ただ「近づくな」と繰り返すばかりだった。好奇心が疼いた私は、フィールドワークのついでに、その神社を訪れてみることにした。

神社は、集落の外れにひっそりと佇んでいた。昼間だというのに、周囲は薄暗く、木々の間から漏れる光が不自然に揺れているように見えた。鳥居をくぐり、拝殿の裏に回ると、そこには古い石碑があった。苔に覆われ、文字はほとんど読めない。石碑の周囲には、なぜか新しい花が供えられていた。誰かが最近来たのだろうか。ふと、足元に視線を落とすと、地面に奇妙な模様が刻まれていることに気づいた。まるで、何かを封じるような円形の紋様。民俗学を学んでいる私でも、こんなものは初めて見た。

その瞬間、背筋に冷たいものが走った。誰かに見られているような感覚。振り返っても誰もいない。なのに、耳元でかすかな囁きが聞こえた。「お前も…見えたか…」。声は、どこからともなく響いてくる。私は慌てて神社を後にしたが、背中に視線を感じながら、足早に民宿に戻った。

その夜、夢を見た。暗い森の中で、私は一人で立っている。遠くから、誰かが私を呼んでいるような気がする。声に従って歩いていくと、社の裏の石碑が現れた。石碑が、ゆっくりと揺れている。いや、揺れているのは石碑ではなく、その下の地面だ。土が盛り上がり、何かが這い出てくる。顔のない影のようなものが、私に向かって手を伸ばす。「お前も…ここに…」。目が覚めた時、額には冷や汗が滲んでいた。

翌朝、民宿の主人が朝食を運んできた際、私の顔を見て心配そうに言った。「昨日、どこか行ったかい? なんだか顔色が悪いよ」。私は、夢のことを話そうとしたが、なぜか言葉に詰まった。その代わりに、神社のことを尋ねてみた。主人は一瞬黙り込み、こう言った。「あの神社は、昔、オクノカミを鎮めるために建てられたものだよ。でも、最近は誰も近づかない。供え物だって、誰も置いてないはずだ」。私は、昨日見た花のことを思い出した。あれは、誰が供えたものだったのか。

フィールドワークの最終日、私は再び神社に向かった。なぜだか、自分でも説明できない衝動に駆られていた。昼間の神社も、不気味な雰囲気をまとっていた。拝殿の裏に立つ石碑は、昨日と変わらずそこにあった。だが、花は消えていた。代わりに、地面の紋様が、昨日よりもはっきりと見える気がした。私は、カメラを取り出し、紋様を撮影しようとした。シャッターを切る瞬間、背後でカサカサという音がした。振り返ると、誰もいない。だが、木々の間から、黒い影が一瞬だけ見えた気がした。

その夜、集落を離れる前に、撮影した写真を確認した。石碑の写真には、紋様がくっきりと映っていた。だが、よく見ると、紋様の中心に、人の顔のようなものが浮かんでいる。目も鼻もない、ただの輪郭のようなものなのに、なぜかそれが私を見ているように感じた。私は、恐怖のあまりカメラのデータを消去した。民宿の主人に別れを告げ、車で集落を後にした時、バックミラーに映る山の稜線が、まるで何かを隠しているように見えた。

それから数週間、大学に戻った私は、フィールドワークの報告書をまとめていた。だが、あの集落での出来事をどう書けばいいのかわからなかった。結局、妖怪譚の一部として、オクノカミの話を簡潔に記すにとどめた。指導教員は「面白い話だね」と笑ったが、私は笑えなかった。夜、部屋で一人になると、時折、カサカサという音が聞こえる気がする。窓の外を見ても、何もいない。なのに、背中にあの視線を感じるのだ。

今でも思う。あの石碑の下には、何がいたのか。花を供えたのは、誰だったのか。そして、私が見た影は、本当にただの幻だったのか。オクノカミは、人の心の隙間に入り込むという。あの集落を離れた今も、私の心のどこかに、あの囁きが残っているような気がしてならない。

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