数年前、佐賀県の山間部にひっそりと佇む小さな集落に、俺は大学の民俗学ゼミの調査で訪れていた。集落は、まるで時間が止まったかのような古びた家々と、苔むした石垣に囲まれていた。目的は、集落に伝わる「夜泣き石」と呼ばれる伝説の検証。地元では、夜な夜な石が泣くような音を立て、近づく者を不思議な力で惑わすと言われていた。俺は半信半疑だったが、ゼミの仲間たちと一緒に、その石を探し出すことにした。
集落に着いた初日の夜、俺たちは地元の古老から話を聞いた。夜泣き石は、集落の外れにある小さな祠の近くにあり、かつては村の守り神として祀られていたが、ある事件をきっかけに「呪いの石」と呼ばれるようになったという。その事件とは、数十年前、村の若者が石の近くで不可解な死を遂げたこと。以来、夜に石の近くを通る者は、奇妙な音を聞き、幻覚に悩まされるというのだ。古老は目を細め、「若いもんは近づかん方がいい」と警告したが、俺たちの好奇心はそんな言葉では抑えられなかった。
翌日、俺たちは祠を目指して山道を登った。ゼミの仲間は俺を含めて四人。リーダーの陽気な男、冷静な分析派の女子、怖がりだけど好奇心旺盛な後輩、そして俺だ。山道は鬱蒼とした木々に覆われ、昼間でも薄暗かった。鳥のさえずりすら聞こえず、ただ自分たちの足音と呼吸音だけが響く。やがて、苔に覆われた小さな祠が見えてきた。その脇に、ひときわ異様な存在感を放つ石があった。灰色の表面はまるで何かを吸い込むようにざらつき、近くに立つだけで背筋が冷えるような感覚に襲われた。
「これが夜泣き石か…」リーダーが呟き、カメラを構えた。俺もスケッチブックに石の形状を書き留めようとしたが、なぜかペンが震えて上手く描けない。冷静な女子が「ただの石よ。迷信に決まってる」と笑ったが、彼女の声にもわずかな震えが混じっていた。後輩は石から目を離せず、唇を噛んでいた。その夜、俺たちは集落の民宿に戻り、撮影した写真や録音データを確認した。だが、カメラに映った石の写真はどれもピンボケで、録音にはかすかなノイズしか残っていなかった。「おかしいな、ちゃんと撮ったはずなのに…」リーダーが首をかしげる。俺は妙な胸騒ぎを覚えたが、疲れていたこともあり、そのまま眠りについた。
深夜、ふと目が覚めた。部屋は真っ暗で、仲間たちの寝息だけが聞こえる。いや、寝息だけではない。どこからか、低い、まるで唸るような音が響いてくる。窓の外か? それとも…。音は次第にハッキリと、まるで誰かがすすり泣くような声に変わっていった。背筋が凍りつき、布団の中で身を固くした。音は遠くから聞こえるようで、でも同時に耳元で囁いているような不気味さがあった。恐る恐る窓に近づき、カーテンをそっと開けた。月明かりに照らされた集落の風景は静かだったが、遠く、祠のある方向に、ぼんやりとした光が揺れているように見えた。
翌朝、俺はそのことを仲間たちに話したが、誰もそんな音は聞いていないと言った。後輩だけが、どこか青ざめた顔で「私、夢を見た…石が動いてた」と呟いた。リーダーは「夢だろ、気にすんな」と笑い飛ばしたが、俺は彼女の怯えた目が気になった。その日、俺たちは再び祠に向かった。だが、昨日の石とは何か違う。石の表面に、まるで爪で引っ掻いたような細かな傷が無数に増えている気がした。冷静な女子が「風化だろ」と一蹴したが、彼女の手が震えているのを見逃さなかった。
その夜、事態はさらに異様さを増した。民宿の部屋で、突然電気が消えた。真っ暗な部屋に、仲間たちの驚いた声が響く。リーダーが懐中電灯を点けようとした瞬間、窓の外からドンッと何かが叩く音がした。俺たちは凍りついた。後輩が小さな悲鳴を上げ、俺の腕を掴んだ。音は一度では終わらず、まるで誰かが窓を叩き続けるように、断続的に響いた。リーダーが意を決して窓に近づき、カーテンを開けた。だが、そこには誰もいない。ただ、窓ガラスに、かすかに白い手形のようなものが浮かんでいた。懐中電灯の光で照らすと、手形は消えたが、俺たちの心臓はバクバクと鳴り続けていた。
翌朝、俺たちは集落を出ることにした。もう調査どころではなかった。古老に別れの挨拶をしに行くと、彼は俺たちの顔を見て、静かに言った。「石に呼ばれたな。気をつけなさい。まだ終わっとらんよ」。その言葉が頭から離れず、車で集落を後にする間も、俺は何度もバックミラーで後ろを確認した。誰もいないはずなのに、まるで誰かに見られているような感覚が消えなかった。
それから数週間、俺たちは日常に戻ったが、誰もあの出来事を口にしなかった。だが、ある日、後輩から連絡が来た。彼女は震える声で言った。「あの石…夢に出てくるの。毎晩、動いてる。私の名前を呼んでる…」。俺は言葉を失った。なぜなら、俺も同じ夢を見ていたからだ。石がゆっくりと動き、俺の名前を囁く。その声は、まるで夜泣き石の泣き声そのものだった。
今でも、佐賀のあの集落のことを思い出すと、背筋が冷える。あの石は、ただの石ではなかった。何か、俺たちを引き寄せ、絡め取ろうとする力が宿っていた。もし、あの集落を再び訪れることがあれば、俺は決して夜に祠には近づかないだろう。夜泣き石の囁きが、今もどこかで響いている気がしてならないのだ。