長崎県の山深い集落に、誰も近づかない森があった。そこには古びた祠がひっそりと佇み、苔むした石段がその存在を辛うじて示していた。地元の者は皆、その祠について口を閉ざし、子供たちには「決して近づくな」と言い聞かせていた。だが、なぜか誰もその理由を語ろうとはしなかった。
私と友人のユウトは、夏の終わりにその集落を訪れた。ユウトは都市部から来た好奇心旺盛な男で、こうした田舎の言い伝えや禁忌に目がない。私自身は半信半疑だったが、彼の熱意に押され、祠のことを聞きつけた彼に同行することになった。集落に着いたその夜、宿の老婆に祠の話を振ってみた。彼女の顔は一瞬で強張り、震える声で「若い者は知らん方がいい。あそこは…触れちゃならん」とだけ言った。その目は、まるで何か恐ろしいものを今も見ているかのようだった。
翌朝、ユウトは目を輝かせながら「行くしかないだろ!」と私を引っ張り出した。私は気が進まなかったが、彼の勢いに逆らえず、結局二人で森へと向かった。集落の外れから森に入ると、急に空気が重くなり、鳥のさえずりも聞こえなくなった。木々の間を抜ける風が、まるで誰かの囁きのように耳元で響いた。ユウトはそんな雰囲気にも臆せず、スマホで写真を撮りながら進んだが、私は背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
やがて、鬱蒼とした木々の奥にその祠は現れた。小さな石造りの祠は、屋根が半分崩れ、蔦や苔に覆われていた。祠の前には、まるで何かを封じるように大きな石が置かれ、その表面には風化した文字が刻まれていたが、読むことはできなかった。ユウトは興奮した様子で「これだ! 絶対何かある!」と祠に近づき、石に手を触れた。その瞬間、森全体が一瞬静まり返った。風が止み、木々のざわめきすら消えた。私は「やめろ!」と叫んだが、ユウトは笑いながら「ただの石だろ」と石をどかそうとした。
その時、祠の奥から低い唸り声のような音が響いた。それはまるで、地面の下から何かが這い上がってくるような不気味な音だった。ユウトの手が震え、彼の顔から笑みが消えた。私は彼の腕を掴み、「逃げよう!」と叫んだが、彼は動けずにいた。祠の奥の暗闇が、まるで生きているかのように蠢き始めた。そこから、黒い靄のようなものがゆっくりと這い出し、私たちの足元に広がった。靄は冷たく、触れた瞬間に全身が凍りつくような感覚に襲われた。
「ユウト、走れ!」私は彼を無理やり引っ張り、森を駆け出した。背後では、木々が軋む音や、地面を這うような不気味な音が追いかけてきた。振り返る勇気はなかったが、背中に何かの視線を感じた。息が切れ、足がもつれそうになりながらも、ようやく森の出口に辿り着いた。集落の明かりが見えた瞬間、背後の音がピタリと止んだ。私は地面に倒れ込み、ユウトを見た。彼は青ざめ、目を見開いたまま震えていた。「あれ…何だったんだ…」と彼は呟いたが、言葉は途切れがちだった。
その夜、宿に戻った私たちは、老婆に全てを話した。彼女は長い間黙っていたが、ついに重い口を開いた。「あの祠は、昔、村に災いをもたらしたものを封じた場所だ。触れた者はみな、祟られる。あんたたち、運が良かったよ。まだ生きてるんだから…」彼女の言葉に、ユウトはただ頷くしかなかった。私は、彼女の目が再び恐怖に揺れているのに気づいた。
翌日、集落を離れる前に、ユウトが撮った写真を確認した。祠の写真には、黒い靄のようなものが写り込んでいた。だが、それだけではなかった。靄の中に、ぼんやりと人の形をした影が浮かんでいた。それは、まるで私たちをじっと見つめているかのようだった。私はすぐにその写真を削除した。ユウトも何も言わず、ただ黙って頷いた。
それから数週間後、ユウトの様子がおかしくなった。夜中に叫び声を上げ、誰かと話しているような独り言を繰り返すようになった。彼は「あの祠の声が聞こえる」と言い、耳を塞いでうずくまる姿を何度も見せた。私は彼を医者に連れて行ったが、原因は分からなかった。ある夜、ユウトは私の家に突然現れ、血走った目でこう言った。「あれはまだいる。俺を呼んでる…」その翌日、彼は行方不明になった。
私は今も、あの森のことを思い出すたびに冷や汗をかく。ユウトがどこに行ったのか、誰も知らない。だが、時折、夜中に窓の外から囁き声のような音が聞こえることがある。それは、まるで森の中で聞いたあの音に似ている。私はカーテンを閉め、耳を塞ぐが、声は頭の中に直接響いてくるようだ。あの祠に近づいたことを、私は一生後悔するだろう。