古刹の囁き

実話風

数年前、奈良県の山間部にある小さな集落に、私は大学の研究のために訪れていた。古い寺院や神社の建築を調査するプロジェクトで、仲間と共に数日間、その地域に滞在することになっていた。集落は静かで、時間が止まったような場所だった。携帯の電波はほとんど入らず、夜になると聞こえるのは虫の声と、遠くで響く鹿の鳴き声だけ。地元の人々は親切だったが、どこかよそ者を警戒するような目つきを感じた。

私たちが拠点にしていたのは、集落の外れにある古い民宿だった。木造の建物は、長い年月を経て軋む音が絶えず、夜になるとその音がまるで誰かが歩いているかのように聞こえた。民宿の主人は寡黙な老人で、必要以上のことは話さなかったが、初日の夜、私たちにこう忠告した。

「山の奥にある古いお寺には、夜は近づかない方がいい。あそこは何か妙なものが出るって、昔から言われてるからな。」

私たちはその言葉を軽く笑いものにした。研究者としての好奇心が勝り、むしろその寺に興味が湧いたくらいだった。翌日、予定を変更して、その寺を訪れることにした。地図に載っていないような細い山道を登り、苔むした石段を踏みしめると、鬱蒼とした杉林の奥に、その寺はひっそりと佇んでいた。

寺は思った以上に古く、屋根の瓦はところどころ欠け、木の柱には風雨に削られた跡が刻まれていた。本堂の扉は半開きで、中は薄暗く、埃っぽい空気が漂っていた。仲間の一人が「まるで時間が止まってるみたいだな」と呟いたが、その声はどこか緊張していた。私も何か胸騒ぎのようなものを感じていたが、それを口に出すのは憚られた。

調査を進めていると、本堂の奥に小さな仏像が安置されているのに気づいた。顔が異様に細長く、目が異常に大きく彫られたその像は、どこか不気味だった。近くにあった古い経典を手に取ると、ページは虫食いだらけで、ところどころに赤い染みのようなものが付着していた。仲間の一人が冗談めかして「これ、血じゃないよね?」と言ったが、誰も笑わなかった。

その夜、民宿に戻った私たちは、どこか落ち着かない気分だった。夕食の後、部屋で調査のデータを整理していると、窓の外から奇妙な音が聞こえてきた。カサカサという、枯れ葉を踏むような音だった。最初は風のせいかと思ったが、音は次第に近づいてくる。仲間の一人が窓に駆け寄り、外を覗いたが、「何もいないよ」と肩をすくめた。しかし、その後も音は断続的に続き、しまいには窓ガラスを軽く叩くような音まで聞こえた。

「誰かいるのか?」

私がそう言うと、仲間たちは顔を見合わせた。民宿の周りは畑と森しかない。こんな時間に人が来るはずがない。恐る恐る窓を開けると、冷たい風が吹き込んできたが、人の気配はなかった。ただ、遠くの山の稜線に、ぼんやりとした白い影のようなものが揺れているのが見えた。一瞬、目を疑ったが、すぐにそれは霧だと自分を納得させた。

翌日、寺での調査を続けることにした。だが、朝から妙なことが続いた。カメラの電池が急に切れたり、ノートに書いたメモが消えていたり。仲間の一人は「昨日から何か変だよ。早く終わらせて帰ろう」と言い出した。私はその意見に賛成だったが、なぜか心のどこかで「もう少し調べたい」という衝動が抑えられなかった。

その日の夕方、本堂の裏にある小さな墓地に足を踏み入れた。そこには古い石碑が並び、文字はほとんど風化して読めなかった。すると、仲間の一人が墓地の奥に奇妙なものを発見した。それは、地面に埋もれた小さな木箱だった。興味本位で箱を開けると、中には髪の毛のようなものが詰まっていた。黒く長い髪が、まるで生きているかのように絡み合っていた。

「何これ、気持ち悪い…」

仲間がそう呟いた瞬間、背後から低い声が聞こえた。

「…返せ…」

振り返ったが、誰もいない。声は風に乗って消えたが、私たちの背筋は凍りついた。その場を急いで離れ、民宿に戻ったが、誰もが無言だった。夜、部屋にいると、再びあの枯れ葉を踏む音が聞こえてきた。今度ははっきりと、誰かが民宿の周りを歩いているような足音だった。窓の外を見ると、暗闇の中に白い着物を着た女が立っていた。顔は見えなかったが、長い黒髪が風に揺れていた。

「見るな!」

私が叫ぶと、仲間たちは慌てて目を逸らした。だが、その後も女の気配は消えず、窓の外からじっとこちらを見ているような圧迫感が続いた。夜が明けるまで、私たちは一睡もできなかった。翌朝、急いで荷物をまとめ、集落を後にした。民宿の老人に別れを告げると、彼はただ一言、「だから言っただろう」と呟いた。

それから数ヶ月後、調査のデータを整理していると、寺で撮った写真に奇妙なものが映っていることに気づいた。本堂の暗い一角に、白い着物の女が立っていた。顔はぼやけていたが、目だけが異様に大きく、こちらをじっと見つめていた。あの仏像と同じ目だった。

今でも、夜中に枯れ葉の音を聞くと、あの寺と女のことを思い出す。あの箱に詰まっていた髪は、いったい何だったのか。あの声は、誰のものだったのか。答えはわからない。ただ一つ確かなのは、あの寺には二度と近づきたくないということだ。

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